In a blue moon


 昼下がりの日曜日は、とてもよく晴れていた。
絶好の撮影日和だ。
私が待ち合わせの駅に着いてしばらくしてから、
早瀬先輩が現れた。
お互いに気持ちの良い挨拶を交わした。
「お久しぶりです。元気でした?」
「はい。今日は誘っていただいてありがとうございます」
私たちはこうしてたまに会ったり、
時折メールのやりとりをしていた。
去年は毎週のように撮影に行ったりしていたが、
彼が仕事を始めてからそうもいかなくなった。
私はまだ気ままな大学二年生だが、
彼は多忙な社会人になったのだ。
「で、今日はどちらに?」
「あぁ、そろそろ夏だしね、海に行こうかと思って。
 友達にいい所を教えてもらったんだ」
夏…というには少し早いきがしたが、
今日のこの見事な五月晴れを見ると、
もう夏ではないかという錯覚に陥りそうになった。
近々、梅雨入りもしそうだ。
「じゃあ、電車に乗ろうか?」
「はい」
こうして我々は電車に乗り込んだ。

 「うわー!すっごくいい眺め!」
約一時間程電車に乗り、
ちょっとした山道を歩くと高台から海が一望できた。
太陽の光を浴びて、海面がキラキラしていた。
美しい景色にうっとりしてしばらく目を奪われていると、
横でシャッターを切る音がした。
見ると、もう既に早瀬先輩は撮影に没頭していた。
ファインダーを覗く目は真剣そのもの。
声をかける隙も無い。
彼一人だけの世界がそこに出来上がっている。
私は気づかれないくらいの小さなため息をついてから、
撮影のための準備を始めた。
レンズ越しに見る海もまた、とても綺麗だった。
普段見るようなごみで汚れた濁った海ではない。
透きとおるような、惹きこまれてしまうような青色。
心が洗われるようだった。
この壮大で、清潔さを表現するためには…
一枚の写真から見る人へ伝えるためには、
どの角度から撮ればいいのだろう?
昔の私はこんなこと、考えなかった。
似たような角度から微妙に違う写真を写し、
現像してからどれが一番良いかを吟味していた。
写真はやたらめったらに撮るものではない…
そんな当たり前のことがわからなかった私にきちんと教えてくれたのは、
今隣にいる彼だった。
「場所、移動するか?下にも降りてみようか?」
彼の声にはっとする。
「ハ、ハイ…!」
機材を持って慌てながら彼の後を追った。

 海岸付近を何枚か撮って、
夕方になるのを待ってから日が落ちるまでまた何枚か撮った。
夜の海もまた素敵だった。
昼間の神聖さとは別に、
夜の闇が深さを増し、神秘性をかもしだしていた。
なんだか、胸が切なくなった。
シャッターを切る指に、力が入らなかった。
「さて…と、そろそろ撤収する?」
私が海に心を奪われている間に、
早瀬先輩は機材をバックに詰めていた。
「あっ、はい」
私も持っていたカメラを鞄に詰めた。
「なんか腹減ったな…メシでも食って帰るか」
そういう訳で、私たちは駅近くにあった中華の店に入った。
ちょっと狭く、あまり長居できないような場所だ。
早瀬先輩と入る店はいつも、
こんな風にムードとは無縁のところばかりだった。
ラクで気をつかわない、
下町にあるような雰囲気を持つ店を彼は好むようだった。
彼は五目そばを、私はチャーシュー麺を頼んで、
ギョーザ一皿を二人で分けた。
食べてる間は特に会話を交わさなかった。
こういう時はお互いに、食べることに集中するからだ。
話すとしても「海、キレイだったよなぁ」とか、
「現像が楽しみだなぁ」といった写真に関することだった。
そのため、あっという間に食事の時間は終わった。
二人でお水を飲み、一息つくと「行くか」と、
早瀬先輩が立ち上がった。
私も同意するように立ち上がり、席を離れた。
それぞれ、自分たちの食べたもののお会計を済ませた。
早瀬先輩がギョーザの分まで払ってくれたので、
店を出てから半額分を手渡した。
私たちはきちんと割り勘するのだ。
彼におごってもらうことなんてことは、
今までに一度も無い。
私も変に気をつかいたくなのでその方がいいのだけれど、
なんとなくがっかりした気分になる。
おごってもらいたいなんて、
そんなあつかましいことを願っているわけではない。
ただ、これでは友達感覚であるというのがひっかかるのだ。
それがささくれのように気になって、時たま痛むのである。

 電車に乗って、私たちの家がある駅の方へと向かう。
それまでの間、早瀬先輩は話し続けてくれた。
気をつかってくれているのかどうか私にはわからないが、
沈黙になると彼は話題を探す。
仕事のことや最近あった出来事など、自分のことを話してくれる。
おかげで私は退屈することがなかった。
彼といるととても安心するし、まったりとした気持ちになる。
私は素直な私でいられるから、
彼といる時だけ自分のことが好きになれる。

 「あ、次の駅だね」
私は次の駅で降りて乗り換えをし、
十分くらい電車に揺られなければならない。
早瀬先輩はこのままこの電車に乗り、
七つ先の駅で降りる。
「今日はお疲れ様」
彼と別れる時、次はいつ一緒に出かけられるのだろうか?
と、私はいつも思ってしまう。
今度はいつ会えるかわからないし、
もう二度と会えないかもしれない。
また彼に会うための口実を私は考えなければならない。
別れ際、私だけが心苦しくなっている。
「お疲れ様でした」
私はつくり笑いをしながら、
その一言と早瀬先輩を残して電車を降りた。
窓の向こうにいる彼が手を振ってくれたので、
私も照れくさくなりながらも手を振り返した。
そしてあっという間に電車は私の目の前から走り去ってしまった。
私は一人、夜のホームに取り残された。
ゆっくりと歩きだしたが、
家に帰るまでの間、何も考えることができなかった。
早瀬先輩と一緒にいた…
その余韻に浸りながら、切なくて、悲しくて仕方が無かった。

 私が大学を卒業した春…つまり去年のことだ。
景色を撮ることに興味を持ち始めたばかりの私は、
写真部に入部した。
部室には何枚かのパネルが飾ってあり、
私はその中の一枚にとても惹かれた。
白い雲が浮かぶ青空の下に深い青色の海が写されていた。
私がもともと空と海の風景がとても好きということもあったが、
その写真を何度見ても飽きることはなかった。
「よっぽど気に入ったんだね、その写真」
一人の先輩に声をかけられた。
「ここにある写真は、この部活にいる人が撮ったんですよね?
 誰が撮ったんですか?」
私は思い切ってそう尋ねた。
他の写真は誰が撮ったかとかだいたい把握できていたが、
この写真の撮影者だけは入部して一ヶ月経ってもわからなかった。
「あぁ、この写真はね、今の四年生の人が撮ったんだ。
 最近は部活に顔をださないしな…なんでも、
 就職が決まるまでは部活に来ないって言ってたし」
四年生…そうか。
どうりで入部して一ヶ月経った今でも部活で会えないわけだ。
そう納得しながらも、
私はこの写真を撮った人に会ってみたいという衝動に駆られた。
そんな望みを抱きながら時は経ち続け、
ついに秋に入ってしまった。
そんなある日の部活のこと、
いつものように部室で写真を見たり、
皆でのんびりしていた時のことだった。
今までに見かけたことのない人がやってきた。
「あ、こんにちは、先輩!お久しぶりですね」
先輩たちが挨拶する言葉で、その人が四年であろうことがわかった。
部員にあたたかく迎えられながら部室に入ってきた男性。
黒髪に黒いスーツ。
全身を黒できっちりとまとめあげ、清楚な印象を受けた。
「ついに決まったんですか?」
「あぁ、だからこうして来たんだ」
その人は二、三年の先輩とそんな会話のやりとりをし、
おっとりとした、あたたかな空気で包まれていた。
この人が来たことで部員が安堵しているというか、
心から歓迎されていることがその空気から伝わってきた。
どうやらこの人は部員から慕われているというか、
人望があるらしい。
目の前の光景を目にしながらそんなことをぼんやりと考えていると、
三年のまひろ先輩に声をかけられた。
「真菜ちゃん、真菜ちゃん。あの人がね、
 いつも見てる写真を撮った人だよ」
「…えぇ!?あの人がそうなんですか?」
私は驚きながら向こうにいるその人に目をやる。
あぁ、あの人がそうなんだ…と思うと見方が変わった。
まひろ先輩が彼に声をかけにいくと、
彼は気がついたようにこちらを向いて、私の方へとやってきた。
「きみだったんだね…」
彼が納得したように私に声をかけてきが、
私はわけがわからず、返答に困ってしまった。
「俺が撮ったあの写真を気に入ってくれてるって」
彼はそう言いながら私がいつも眺めている写真に一瞬目を向けてから、
再び私を見た。
「え…なんで知ってるんですか?」
「まひろから聞いたから…えと、突然ごめんね。
 はじめまして。早瀬裕也といいます」
そう言ってにっこりと微笑みかけられた。
私は頭の中がなんだかぼんやりとしたまま彼を見つめていた。
「…はじめまして、富沢真菜です」
自分の言った自己紹介でさえ、
まるで他人が言っているようだった。
こんな感じで早瀬先輩と知り合い、
それから彼は部活によく顔をだすようになったので仲良くなっていった。
まだまだ写真に対して未熟だった私に先輩は色々と教えてくれて、
一緒に撮影に行ったりもした。
そうしているうちに、私は先輩に心惹かれていった。
しかしその時、私には別に好きな人がいたし、
写真を撮る同じ人間として尊敬している…という意味しかもたなかった。
早瀬先輩にしても写真に夢中で、
恋愛ごとにはあまり興味がなさそうだった。
私は先輩といるのがとても楽しかったし、
その時、その時が楽しければいいとあまり深く考えることはなかった。
先輩は憧れの人で、大切な存在。
それだけで十分だった。


 人の心は変わりやすいもの。
だからこそ覚えていたい…過去の想い。
切なくて、悲しくて、
頭に浮かべるだけで涙が止まらなくなる人。
私が心から愛しくてたまらなかった人。
その人に恋した自分と気持ちを忘れてしまいたくなくて、
私は捨てきれずにいる。
でも、それではいけないんだ。
私は過去に戻りやすく、現実には戻ってこれなくなるから。
何度も、過去とともに生きようとした…。
だけどそんなことしたって、過去が生きることはない。
あの人に再び出会うことはない。
あなたを想う心は、今も深く根付いてる…。






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