In a blue moon
ちょっと不気味な雰囲気をかもしだす暗室。
私は前日早瀬先輩と撮った写真を現像していた。
浮き上がってくる景色に満足しながら、
昨日の余韻に浸っていた。
すると入口のカーテンが開かれ、一瞬光が入った。
反射的に振り向くと、そこにはまひろ先輩がいた。
「あ、ごめ!大丈夫?」
彼女は慌てて部屋に再び光が入らないようにする。
「外の暗室のランプ、点灯してなかったよ?」
「あれ…おかしいなぁ」
「電気きれたのかしらね?」
そのことは大した問題ではないように、
まひろ先輩は私が現像していた写真に興味を示した。
「またゆうにいと撮影しに行ったの?」
彼女は少し呆れ気味に笑って言った。
実は早瀬先輩とまひろ先輩は兄弟なのだ。
二人の存在を知ってから関係を知ったので、
その事実を聞いた時はかなり驚いた。
「海に行ってきたんです。
まだ少し早い感じもしたけど、すごく綺麗でしたよ」
私はそう言いながら、
液体からピンセットを使って写真を取り出した。
「ねぇ、真菜ちゃん…」
彼女は真剣な声色で、近くの机に寄りかかって腕を組んだ。
「真菜ちゃんは、ゆうにいが好きなのよね?」
「…えっ」
突然の問いに、思わず振り返って彼女を見つめることしかできなかった。
「ごめんね、いきなりこんなこと…今、なんとなく聞きたくなったの。
薄々そうじゃないかって思ってたんだけど」
私は静かに写真を置いて姿勢を真っ直ぐにし、
どこを見るわけでもなく、ただ前を向いていた。
「自分でも…よく、わからないんです。
早瀬先輩のことは好きですけど、それは憧れとしてなのか…。
もしかしたら先輩が私を後輩としてしか扱っていないから、
自分も先輩としてしか見ちゃいけないって言い聞かせてるのかもしれないし」
私は、そのあとの言葉を失ってしまった。
何を言っていいのかわからない。
先輩に対する私の気持ちを、
それ以上もそれ以下も言いようがなかった。
先輩と後輩…その変わらない関係を私たちはずっと辿ってきた。
それはこれからも変わらない…
だから、何かを歪ませてはいけない。
存在する何かの核心に触れぬまま…
二人の関係は表面だけなのかもしれない。
ふとそう思うと、顔の力が抜けた気がした。
「そっか…」
後ろからため息で擦れた、まひろ先輩の声が聞こえた。
なぜ、彼女はそんな話をしてきたのだろう?
という疑問が浮かんだ。
それは空気を介して彼女に伝わったらしい。
「本当にごめんね、こんなこと…
なんだか二人を見ているともどかしくて」
彼女の言葉にどんな意味が含まれているのかいないのか、
私にはわからなかった。
「ゆうにいがどう思っているのかはわからないけれど、
そうやって大学卒業してからも会ってるなんて、
随分親しいなって感じたから…」
まひろ先輩は組んでいた腕をほどいてから両手を机について自分の体を支え、
今度は足をクロスさせた。
「ゆうにいって女の人っていうか、恋愛に関してもう本当にオクテで、
真菜ちゃんとそんな風に仲良くしてるのがとてもめずらしく感じたの」
私は彼女をみたが、暗室の照明のせいで顔の陰影しか見えなかった。
何を言いたいのか読み取ることができなかった。
私に期待を持たせたいのだろうか?
それとも、早瀬先輩に何かあった…?
「私、何を言っているのかしらね…」
まひろ先輩は私から視線をずらして苦笑いした。
「なんでもないの、気にしないで」
そういい残して、光が入らないようにしながら暗室を出て行った。
物理的にだけでなく、なにか気持ち的にも取り残されたような気分になったのは、
言うまでもなかった。
その日の帰り、私はまひろ先輩の言葉がひたすら気になって、
気がついたら早瀬先輩の家に向かっていた。
まひろ先輩は実家にいるが、
早瀬先輩は大学に入ってから家を出て一人暮らしをしている。
写真を現像したりするのに、私はたまに先輩の家に行っていた。
べつに特に何もなかった。
単なる友達の家に行く、そんな感覚と同じだった。
ちょっと古い二階建てのアパートの真ん中の部屋に先輩は住んでいる。
部屋の明かりがついていなかったので、
まだ仕事から帰ってきていないとのかと思った。
しかし念のためにドアのチャイムを鳴らしたが、
やはり返答はなかった。
妙な不安に駆られた。
背すじに鳥肌が走り、鼓動の音が耳の奥で大きく聞こえ、
その振動で視界がぶれそうになるくらいだった。
つばを飲み込むと、その音が異様に大きく鳴ってしまった。
どうしよう…このまま待っていても迷惑だろうし、
でもせっかくここまで来たのだから…
という二つの間に板挟み状態になった。
とりあえず、近くの喫茶店で時間を潰してからまた来ようと思った。
ドアの前で待ち伏せて、もし他の住人に遭遇した時、
気まずいうえになにかとめんどうなことになりそうだったからだ。
階段を下りて目の前の道路にでると、向こうから人影が見えた。
暗がりの中、電灯に照らされたその人をじっと目を凝らして見た。
間違いなく、早瀬先輩だった。
私は駆け寄ろうとしたが、その足は一歩で止まった。
先輩の隣に誰か知らない女性。
二人で親しげに会話を交わしながらこちらに向かってくる。
一瞬でその光景が目に焼きついた。
見てはいけないものを見てしまったかのように、
私は慌てて二人に背を向けて歩きだした。
この場から逃げだしたい…というように、
気づかれないかとひやひやしながらどんどん速足になっていった。
何も考えられなかった。
何も見えなかった。
ただ、早く離れたかった。
確かに、私は早瀬先輩に心惹かれていた…恋愛感情として。
最初それは本当に憧れだけだった。
でも私が好きだった人からふられて心に傷を負ってふさいでいた時、
外へと、新しい世界へと連れ出してくれた。
徐々に私の心にあたたかさをもたらしてくれた。
そうやって彼の優しさを感じているうちに、
いつの間にか心は奪われていた。
彼への想いが恋愛感情に変わることは容易いことだった。
心の傷を他の誰かで癒してはいけない。
心から彼のことが好きなのかと、ずっと考えていた。
一緒にいるととても楽しくて、嬉しくて。
別れになるととても悲しい。
ずっと一緒にいたい…。
そう願った私の心に浮かんだ言葉。
私は、早瀬先輩が好きです。
真っ暗な部屋。
静寂を保ちながらも、CDはずっとかかりっぱなしになっている。
あの夏を思い出す曲――…。
弱った心が、過去の想いをとり戻すのは簡単なこと。
私はベッドに横になって身を丸くしながら何も考えずに、
ただ涙を流していた。
息が止まってしまいそうなくらい、胸が痛い。
私にのしかかってくる重みに耐えきれなくなりそうになるが、
私にはじっと耐えることしか選択肢は無い。
メロディーは私の心に染み込み、
嫌というほど気持ちをあの頃に戻し、忠実に再現する。
こうやっていつまでも過去に捕らわれたまま、
行ったり来たりの繰り返しなのだろうか…?