In a blue moon


 結局、早瀬先輩に何も聞けないまま、
心には何かつかえたまま時だけが過ぎていった。
撮影のお誘いがあったが、
「忙しいのでしばらくは撮りに行けません」
と、丁重に断った。
なんだかピントの合わない、ぼやけた世界の中に私はいた。
梅雨の時期に入り、雨の降る日が続く。
そのせいでさらに視界がぼやけた。
もう、なんの感情も湧いてこなかった。

 その日も雨で、夏も近いというのにとても肌寒かった。
なんだか、解放された気分になる週末の金曜日。
私は綾香に誘われて、二人だけで夕飯を食べに行った。
駅近くのファミレス。
私たち同様、学校帰りの大学生らしき若者や、
制服を着た学生たちが店内を賑わせていた。
私たちを迎えたウェイトレスが「禁煙ですか?喫煙ですか?」
と尋ねてきた。
いつも綾香が煙草を吸うので私が「喫煙で」と答えようとしたが、
その言葉を遮って「禁煙で」と、彼女は言った。
「え、いいの?」
そう私が囁くと、
「やめたのよ」
と彼女は簡潔に答えて、
私から逃げるようにしてウェイトレスの後についていった。
私たちは案内された席に座り、メニューを開いた。
あまり迷うことなく決まったので、すぐに注文した。
ウェイトレスは機械的に私たちに応対し、
すぐに姿を消した。
綾香は時間をかけて自分の手をおしぼりで拭き、
私はその様子を窺うようにゆっくりと水を口に含んだ。
なんとなく、彼女の様子がいつもと違う気がした。
何か話しがあるのではないか…?
そんな予感がよぎった。
しかし彼女から口を開くまで、私は何も聞かなかった。
向こう側に見える窓からは太陽が沈みかけていたが、
まだ雨が降り続いていたので夕方と感じさせない景色が見えた。
「あのね、真菜…話があるの」
綾香はいつになく真剣な声で、私に語りかける。
「なに?」
私も彼女の声色に合わせて答える。
「私…7月限りで大学を辞めることにしたの」
「え…!?」
予想していなかった言葉に私は目を丸くして、
射抜いてしまうんではないかというくらい、
彼女の目を見つめた。
なぜ彼女がそんなことになってしまったのか、
その事情を想像しようとしたが、
あまりにも衝撃すぎて何も考えられなかった。
思い切って彼女に問う。
「ど…して…?」
彼女は小さな震えたため息をついてから、
少し話しずらそうに話し始めた。
「…子供が、できたの」
彼女の言葉に、一瞬固まる。
「え…それは、もちろんあきらさんとの?」
動揺して声がうわずる。
「うん…」
私とは対照的な様子で彼女は冷静に答える。
「だからね、煙草をやめたの」
驚く私を前に、綾香はそう続けた。
私はなんと返していいのかわからず、言葉を失う。
綾香は視線を斜め下に向け、しっかりとした顔つきで言う。
「私、このことを彼に言おうか迷ったの…
 『迷惑だ』なんて言われたら私、立ち直れないわ。
 それに彼だって今年社会人になったばかりで、
 経済的にも精神的にも不安定だと思ったから…。
 負担にはなりたくなかった。
 でも一人では抱えきることができないから、きちんと話すことにしたの。
 彼、初めはとても困惑した顔してた。
 しばらく考えてから、彼はこう言ったの。
 『一緒に育てていこう』って」
彼女の口もとに笑みが浮かんだ。
「とても恐かった…だけどその一言を聞いてとても安心した。
 今まで一緒にいたいって思ってたけど、さらに強くなった。
 彼に対しての想い、確信みたいなものになったわ」
「じゃあ…結婚するの?」
「いちおう籍を入れるけど、式はあげられないかも…」
「大学は…続けられないの?」
寂しさのこもった私のかすれた声に反応して、
綾香が真っ直ぐに私を見る。
「本当はぎりぎりまで通って休学しようかとも考えたんだけどね。
 やっぱり子供が生まれたら復学も難しいだろうし…。
 私は、彼のそばにいることを決めたから」
そう語る彼女が、妙に大人びて見えた。
本当に同い年なのだろうか…?と疑問を持ってしまうくらい、
お互いの人生も、背負っているものの重さも違うように感じられた。
なんだか置いていかれたような、
取り残されたような気分になったが、
それとは別に、彼女の幸せを聞いて胸がいっぱいになった。
「おめでとう」
私はあたたかい言葉とともに笑顔を向けた。
「ありがとう」
彼女は本当に幸せそうな、満面の笑みを浮かべた。

 その日を境に、綾香は大学を休むことが多くなった。
気がついたら私は一人でいることが多くなった。
教室で席についていると、
授業が始まるまで何をしていればいいのかわからなかった。
いつもなら綾香がいて、
たわいもない話をしていたのに…。
隣がいなくて、とても寂しい。
周りは友達同士で座って楽しそうな会話が飛び交っている。
ざわめきの中、私はぼんやりと違う世界にいるようだった。
「真菜」
私の名を呼ぶ優しい声で、我に返った。
見上げるとそこには明宏が立っていた。
Tシャツのうえに半袖のシャツを羽織ってジーパンを履き、
左肩から鞄を提げて、右手にはノートを数冊抱えていた。
彼の変わらない姿といつもの太陽のような優しい笑顔を見て、
私はなんだかほっとしてしまった。
そういえば、この授業は明宏と直哉と綾香と私で受けたっけ…
なんてふと考えながら、少し寂しい気分になった。
遠い過去を思い出したようだった。
「隣、いいかな?」
「うん」
そんな心境を悟られないように、
なんでもないフリをして明宏に接する。
「今日も直哉はいないの?」
「あぁ、なんか来てないみたいだな…
 アイツ、そろそろ試験だっつーのにな?」
「そだね」
私は笑いながら答える。
「…そういえば、この前綾香から話聞いたよ」
明宏が少し声のトーンを落として言う。
「うん…」
私もそれに合わすように静かに答える。
「なんていうか…突然で驚いたよ…」
「私も…」
綾香の話がでるだけで、
私の心のぽっかりとしたものはさらに広がる。
隙間風が通り抜ける度に、しみる感じがする。
孤独感が、私を襲う。
「…大丈夫?」
「な、なにが?」
「綾香がいなくなって寂しいんじゃないかと思って…」
誤魔化しても、彼はすぐに見抜いてしまう。
そう、その通りだ。
「綾香がいなくなって、なんだか捕られてしまったような気になって。
 すごくおめでたいことで心から祝ってるはずなのに、嬉しいのに…
 一人になると、とても寂しい…」
彼女は私にとってとても大切な存在だったのだと、
改めて気づかされた。
この世からいなくなってしまったわけではないのに、
この世から私の方が消えてしまいそうだった。
「綾香の幸せを願えない私が醜い…」
こんなこと言って、きっと明宏も呆れてるはず。
ホント自分が情けなかった。
突然色んなことが起こったから余計に私は混乱していた。
鼻がじーんとする。
涙が溢れそうだった。
そんな私の頭を明宏の大きくて優しい手がゆっくりとなでてくれた。
「大丈夫だよ…綾香は真菜のこと、大事な友達だって忘れないから。
 今までと変わらないよ。
 俺も直哉も、そばにいるから」
彼の言葉が水となり、私の乾いた心を潤した。
思わず私は両手で目を覆った。
「ありがとう」と言ったが、うまく言葉にならなかった。
しかし明宏はその気持ちをちゃんと受けとめたよ…というように、
私の背中を一定のリズムでゆっくりと優しく叩いてくれた。
やっと暗闇から抜け出せたように、とても安心した気持ちになった。









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