In a blue moon
授業がもうあと1分少々で始まりそうだったが、
私は「顔を洗ってくる」と言ってタオルだけを持って教室を出た。
明宏は笑顔で見送ってくれた。
洗面台の蛇口をひねり、水をだしっぱなしにする。
手だけを濡らし続け、鏡に映った自分の顔を見る。
ため息をついて苦笑いする。
手で水をすくって軽く顔を洗い、
タオルで顔を覆った。
ごしごしと顔を拭くのではなく、
そのままタオルをあてたままじっとしていた。
そしてもやもやしていたものを吹き飛ばすようにタオルを顔から離し、
視界を広げた。
もう大丈夫…というように、
鏡の自分に向かって笑いかけた。
トイレからでて教室に戻ろうとした途中に喫煙所があり、
そこに直哉が一人座って煙草を吸っていた。
声をかけようとしたら彼が先にこちらに気がついて、
声をかけてきた。
「よう」
「…授業始まってるよ?またサボり?」
私の言葉を無視するように彼は煙草を吸って、
ゆっくりと煙を吐いた。
そこには直哉と私だけしかいなくて、
遠くからマイクを使って講義している先生の声が音となって聞こえているだけだった。
彼は何も言わずにただ煙草を吸い続けるので、
私は黙ってその場を去ろうとした。
が、足を動かしたと同時に直哉に呼び止められた。
「隣、座れば?」
「でも、授業が…」
私はそう言いかけたが、
彼はまたしても私の言葉を黙殺した。
私は迷いながらも少し間をあけて彼の隣に座った。
空気が妙に張り詰めていた。
思わず緊張してしまって、それを体がピリピリと感じるくらいだ。
直哉の顔が見れないままで、
持っていたタオルを見つめてぎゅっと握りしめた。
なんだかいつもと違う感じがした。
隣にいるのは間違いなく直哉であるのに、
直哉ではない別人がいるようだった。
「綾香、結婚するんだってな…」
彼はそう言いながら灰皿に煙草を押し付けた。
「うん…聞いたんだ?」
「昨夜な。ずっと携帯にでれなかったから」
「そか…」
直哉が日々、どう過ごしているのかはわからない。
この人は気がつくと大学に来ていて、
気がつくと四人でいる。
今日大学に来ているのだって相当久しぶりなはず。
また遊んでいたのだろうか…?
彼は夜遊びが激しい。
詳しくは聞いたことないが、
クラブにはよく出入りしてるみたいだし、
自分の限界以上に酒を飲み歩く。
毎晩友達とつるんで騒ぎ、
毎晩違う女と遊ぶ。
そして一夜限りの関係を結ぶ。
彼に泣かされた女は何人くらいいるのだろう…?
それとも、彼女たちは望んでしたことと割り切っているのだろうか…?
そうやって女性関係は耐えないうえに、
“彼女”と呼べる存在は常にいる。
私には考えられない世界。
皆、納得しているのだろうか?
そんな直哉のルックスはまあまあだと思う。
黒髪でほどよい肉付きの長身。
顔もたいして悪くない。
一見、どこにでもいそうな普通の男性。
きっと甘く囁く言葉にたけているのだろう。
前に綾香が「アイツは女の敵」だと言っていた。
そんなことを考えながら、何の気なしに彼の横顔を見た。
少しやつれたせいか、いつもより大人びて見えた。
「綾香がいなくて寂しい?」
彼の突然の言葉に「えっ?」という言葉が声にならなかった。
ここで初めて直哉と目が合う。
明宏にも同じことを言われた…。
私って綾香がいないとそんなに寂しそうに見えるの?
なんてことを脳裏に浮かべつつ、
彼の瞳に惹きこまれていた。
目が、そらせない…。
「うさぎ目は、そのせい?」
表情を変えずに言った、意地悪な彼の言葉。
私はカッとなって、思わず目をこすった。
これ以上ないくらい。
「おい、やめろよ!悪かった、ごめん!!」
直哉は私の手首をつかんで止める。
目と目が再び合う。
「えぇ…そうよ」
他人にあまり関心を持たない彼に、
私の心を見透かされそうな気になる。
「綾香がいなくなって寂しいわよっ!
私一人だけが置いていかれたみたいで…
そう感じるのしょうがないじゃない!そんなに悪いことなの!?」
直哉から視線をそらし、斜め下を向きながら吐き捨てるように言った。
私は下唇を噛んで、また泣きそうなのを必死で堪えた。
「ごめん…」
直哉はもう一度謝罪の言葉を述べた。
彼のそれまでとは違う、
あたたかみを帯びた声が私の涙腺を緩めた。
直哉は私を引き寄せて、震える肩を優しく叩いた。
「全然悪いことじゃないよ…ただ、俺も明宏も真菜が心配なんだよ」
「うん…うん、わかってる」
自分がここまで崩れるとは思わなかった。
きっと私は疲れきっていたんだと思う。
綾香も、早瀬先輩も、
私を置いてどこか違う世界に行ってしまうようだった。
皆が私から離れていってしまいそうだった。
私は突然一人になったみたいだった…。
でも明宏がいる。直哉もいる。
「ありがとう…」
私はしばらく彼の腕の中で泣き続けた。
呼吸が整い始め、私はようやく落ち着きをとり戻した。
「もう、大丈夫か?」
「うん…」
私は直哉の顔が見れないまま、
彼からゆっくりと体を離した。
涙を持っていたタオルで拭う。
「授業、戻らなきゃ」
鼻をすすりながら言う私を前に、直哉が吹きだした。
「な、なによ…」
「お前って、ホント真面目だよなぁ」
「だって、明宏も待ってるし…」
「あー、ハイハイ」
直哉はふてくされる私をなだめるようにして言った。
「それじゃ行きますか」
立ち上がった彼を、私は見上げながら言った。
「え?直哉、授業でるの?」
「…でちゃ悪いかよ」
「いや、サボると思ったから…」
彼は授業に参加する意志があることを伝えるかのように、
まだ立ち上がらずにいた私の手を引っ張り、
教室まで連れていかれた。
講義はもちろん、もう始まっていた。
明宏の隣に座ると、彼は心配そうな顔をしていた。
「遅かったね…平気?」
「うん、ごめんね。直哉がいたから」
「おう」
そう言って直哉が明宏に声をかけた。
「お。久々じゃねーか」
「あとでノート貸して」
「お前はそうやっていっつもいっつも…」
「好きなもんおごるから」
「…しょーがねぇなぁ」
そんな授業中の密かな二人のやりとりに思わず笑ってしまう私。
さっきまで不安で泣いていたのが嘘みたいだった。
綾香がいなくなってこれからやっていけるのかと心配になっていたが、
明宏と直哉がいてくれた。
二人は綾香とよく喋っていて、
私はその付属品のように感じていた。
だから彼女がいなくなったら二人もいなくなってしまうのかと思っていたが、
そうじゃなかった。
気をつかって一緒にいてくれるのかとも考えてしまったが、
そんなことを気にするのはやめた。
むしろこんなことを話したら、逆に二人に怒られてしまいそうだ。
一緒にいると楽しいから。
きっとそう思ってくれてるということにして、
それ以外に理由はないということにした。
そして、別のところにちょっとした変化が見えるようになった。
直哉が毎日学校に来るようになったのだ。
ある日、喫煙所で煙草を吸っている直哉を見つけ話をしている時、
そのことについてなんとなく尋ねてみた。
すると彼は驚くべき答えを返してきた。
「夜遊びをしなくなったから、朝起きれるようになったんだよ」
聞き間違いかと思った。
「え…夜遊びしなくなったの?」
動揺している私をよそに、直哉は平然と煙草を吸っていた。
もしここに綾香がいたら、
「天変地異の前ぶれだ!」とか言って大騒ぎだったであろう。
私の場合は、ただ黙って彼を見続けることしかできなかった。
「なん…で?」
「…試験前だから」
直哉はそう答えたが多分、嘘だと思う。
疑うのは申し訳ないが、今まで試験前になって大学に来ることは多くなっても、
夜遊びだけはやめていなかった。
もっと他に理由があるようにみえたが、
それ以上は何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がしたし、
彼も触れられることを望んでいないようだった。
直哉は変わり始めていた。
何がそうさせたのかはわからないが、
確実に彼は変わり始めていた。
また私の方も、
何か始まりそうだという予感がしていた。
友達は、とても大切な存在であると思う。
その人から影響を受けて自分が成長できるし、
その逆だってある。
楽しむ時も、悲しむ時も、そばにいて分け合える。
私は友達に、本当に恵まれていると思う。
自分は何もしてあげられないというのに、
それでも私がつらい時はずっと話を聞いてくれて、
私の痛みを理解しようとしてくれた。
励ましてくれる。
私が「死にたい」と口にした時。
涙を流した友達がいた。
必死で引き止めてくれた友達がいた。
私はそうやってでしか自分の存在価値を見出すことができず、
とても虚しく感じることもあった。
本当に死ねる勇気なんてカケラもないくせに。
私が今生きていられるのは、
友達に支えられているから。
とても、とても感謝している。
言葉では伝えられないくらい。
大切な、私の友人たち…。