幻想の調べ
それから、俺の中に彼女は住みついてしまった。
あの歌声が耳から離れることはなかった。
何をしていても、俺はこの場にいない気がした。
またあの不思議な地下に立っている気がしてしょうがなかった。
全ての機能が停止し、あの晩に見たものが繰り返し繰り返し頭の中で流れていた。
まるで何かの中毒にかかってしまったようだった。
虚脱感の中で毎日を送っていたある日のことだった。
「今夜、この前のトコに行くか?」
と広雅からの誘いがあった。
胸が騒いだ。
俺がしばらく黙っていたので、広雅は少しあせりながら言った。
「いや、嫌ならいいんだ。
でもおまえがあそこのこと忘れらんなそうだったからさ」
図星だった。
俺はあそこのことを忘れられないでいた。
もう一度行ってしまうと、俺はどうなるんだ…?
そんな不安と期待が入り混じりつつ、俺は広雅からの誘いを受けた。
あの場にもう一度行くという選択が果たして正しかったのか…
それはわからなかった。
でも俺はあの女性に…YU−KIにもう一度会いたかった。
あたりが闇に包まれ、その闇を月が照らす頃。
俺たちはあの地下に行った。
二人の格好はいたって普通だった。
人々が一風変わった服装をするのは、
一種の自己表現なんだと広雅は教えてくれた。
日常着ているようなシャツにジーパンでも全然平気だと聞かされた時、
俺は安心した。
俺にはああいった格好はできない。むしろしたくなかった。
扉の向こうの世界に行くと、ステージ上に彼女の姿は見えなかった。
歌姫がいないせいかその空間はこの前より少しざわついていた。
そのざわつきより小さな音で何かBGMがかっていた。
YU−KIがいないことに、自分ががっかりしているのがわかった。
「今夜、YU−KIはいないんだな」
思わず声にだしてつぶやいてしまった。
「ああ、彼女はいつもステージに立っているわけじゃないんだ。
表に出るのにも時間が不規則だから、彼女の歌を聴けるっていうのはある意味、
運がいいことなんだ」
広雅はそう言いながら俺の肩を軽く叩いた。
俺は誰もいないステージを眺めながら、薄暗い広場に立ちつくしていた。
この前はあまり気にしていなかったが、ステージは複雑なつくりをしていた。
やや高さのある舞台の背景には、鉄のような壁に鉄のような柱が半分うめこまれ、
いくつかのまっすぐな線で彫刻がほどこされていた。
窓のようになっている部分からは、
まるで青い波が揺らいでいるような映像が映しだされていた。
その青が、この地下の光に影響していた。
今夜ここにYU−KIは立たないかもしれない。
「酒でも飲むか?」
広雅がそう言った時だった。
「あの、すみません」
後ろから女性の声が聞こえた。
反射的に振り返ると、そこには20歳前後の女性が一人立っていた。
栗色の長い髪で、耳元には大きなリングのイヤリング。
ピンクのアラビア風の服装をまとい、口元にベールをつけていた。
地下の人間に声をかけられたのは初めてだった。
一体何の用かと俺が不信そうな顔をしていると、
彼女はにっこり笑った。
「私と一緒に来て頂けませんか?
YU−KI様があなたにお会いしたいと申しております」
俺はその言葉に驚いた。
YU−KIが…俺に?どういうことだ?
突然の話に当惑していると、その女性は笑顔のまま続けた。
「安心して下さい。あなたに危害を加えるような真似は決してしませんから。
こちらです」
女性は俺を案内しようと歩きだした。
俺は迷いながらも広雅をその場に残して、女性についていった。
広場を離れ奥にいくと、一つのドアがあった。
そこには番をしている男性が立っていた。
見るからに頑丈そうな体をしていた。
その男の格好もアラビア風で、頭にはターバンをしていた。
男は女性と目を合わせると腰につけていた鍵を取り出し、そのドアを開けた。
中は暗くて先が見えなかった。
女性はその中を平然と歩きだしたので、俺は慌てて後を追いかけた。
しばらくするとドアの閉まる音がして、真っ暗になってしまった。
全く光がない中で、前にいる女性の姿を見失いそうになった。
姿を追っていたというより、足音を追っていたといった感じだった。
方向感覚はなかったが、おそらく真っ直ぐに進んだであろうその先には
大きなドアがあり、両側にはたいまつが置かれていた。
彼女は鍵を取り出して、ドアを開けた。
その向こうは部屋になっていた。
今まで歩いてきた暗さから一転して、そこは明るかった。
部屋全体の壁が白かったからかもしれない。
ソファーとテーブルしかない部屋の奥に、
背を向けたデッキチェア型の椅子があった。
そこには人が座っていた。
俺が目を凝らして見ていると、
「YU−KI様、おつれしました」
と案内してきた女性が言った。
その瞬間、俺の中で何かがよぎった。
声をかけられて初めてこちらの気配に気が付いたかのように、
椅子からゆっくりと体を起こしたその人は…YU−KIだった。
頭から足元のハイヒールの色まで赤だった。
彼女のもつ神秘的な雰囲気に、俺は目を見開いた。
「この方ですよね。それでは私はこれで」
そういうと、さっきの女性は部屋を出ていってしまった。
いきなり二人っきりにされ、俺はどうしていいのか困ってしまった。
視線の先にはYU−KIがいた。
俺はつばを飲み込んだ。
彼女は無表情で、冷たい目をしていた。
その視線で俺は金縛りにでもあっているかのように動けなかった。
するとYU−KIはゆっくりとした足どりで、こちらに向かってきた。
目の前までくると両手を俺の首にまわし、何かをつけた。
十字架のペンダントだった。
俺を上目づかいにみた彼女の表情は、微笑しているかのように見えた。
しかしよく見るとやはり無表情のままだった。
それから俺の手をとると、鍵を渡した。
彼女は何も言わなかったし、俺も何も言わなかった。
沈黙が二人を包んでいた。
「なにー!?YU−KIからペンダントをもらっただぁ?」
広雅は飲んでいた酒にむせながら言った。
あの後、俺はYU−KIの部屋を出て広雅の所に戻り、
カウンターで酒を交わし始めた。
そして、今さっきあったYU−KIとの出来事について話した。
「ああ。ほらコレ」
俺はYU−KIからもらった十字架のペンダントを見せた。
「まじかよ…」
広雅はため息をつきながら両手で顔を覆った。
そんなに驚く訳が俺にはわからなかった。
「な、なんでそんなに驚くんだよ?」
手の隙間から広雅が目を覗かせた。
異様な空気が流れる中で、広雅が重い口を開けた。
「YU−KIから何かもらうってことは、彼女に立ち入っていいってことだぞ?」
「…は?」
言われている意味がよく分からなかった。
広雅は酒を一口含みながら続けた。
「彼女は人に干渉されるのを好まないんだ。だから周りに人を寄せつけない。
彼女の周りにいることを許されているのは、さっきお前を呼びに来た人のような
YU−KIを補佐する数人と彼女の兄弟だけ…」
「兄弟が…いるのか?」
「ああ。少し体の弱い兄が一人な…誰も見たことないけど」
広雅は目を閉じて、ため息をついた。
「そして、YU−KIから何かもらった人。お前、
一緒に鍵をもらわなかったか?」
そう言われて、俺はさっきもらった鍵のことを思い出した。
「そういえば、もらった」
「それはYU−KIの部屋の鍵。つまりいつきてもいいし、
彼女はお前に干渉されることを許したってワケさ」
広雅は煙草に火をつけながら言った。
「…これにそんな意味が」
俺は十字架のペンダントを見た。
シルバーで、真ん中にはガーネットのような赤い石が輝いていた。
「それにしてもお前、よくそんなに詳しく知ってるよな」
俺は視線をペンダントから広雅に移した。
広雅は吸っていた煙草を灰皿に押し付け、得意げに言った。
「そりゃ、俺はお前よりここに長くいるからな。
でもまぁよかったじゃねぇか。YU−KIの許しがでてよ。
そんなやつ滅多にいないぜ?
これからちょくちょく会いに行ってやれよ」
広雅に肩を二回、軽く叩かれた。
「あ、ああ」
俺はグラスに残っていた酒を飲みほした。
YU−KIについての謎は深まるばかりで、
考えようにも彼女についてわからないことだらけだった。