幻想の調べ
その日、YU−KIの部屋に行くと誰もいなかった。
ものすごく彼女に会いたい気分だった…。
仕方なく、俺はソファーに腰を下ろした。
自分の意志でここに来たあの日から今日まで、ずっと俺は来ていた。
どうやら俺もここが逃げ場になってしまったようだ。
実際、バンドのことや日常生活のことなんか頭の隅にある程度だった。
頭の中はYU−KIに会うことだけしか考えてなかった。
そうやって、嫌なことから逃げていた。
彼女の助けになるどころか、俺が現実から目を背けてしまった。
非現実的なこの地下の生活にすっかり慣れてしまった。
「そろそろ戻らなきゃな…」
自分に言い聞かせるように静かに呟いた。
しばらくして、YU−KIがカーテンの向こうからやってきた。
部屋の隅にカーテンがあり、隣の部屋に続く通路が隠れていた。
俺は行ったことはなかったが、
どうやらもう一つのYU−KIの部屋があるようで、
そこは寝室になっているようだった。
「今日は早かったわね」
「いや、君が遅かっただけだよ」
「本当に?寝過ごしたみたいね」
ここに時間というものはなかった。
YU−KIがお酒をグラスに注いでいる間に、
さっき理奈からもらったクッキーのことを思い出した。
結構量があったので、お菓子好きのYU−KIと一緒に食べようと
かばんから取り出した。
「あら?何ソレ…手作り?まさかあなたが…?」
YU−KIはグラスを置きながら、驚いていた。
「まさか。友達から」
「友達って…女の子?」
俺の隣に座りながらYU−KIがそう尋ねてきた。
「ああ。俺が組んでるバンドのボーカルの子でさ、
そいつ歌がすげぇうまいんだ。
透きとおってるっていうか、とにかく心に響いてくるんだ。
あいつと組めてホントによかったっていつも思うよ。
ただ、それとは逆に料理がまるっきり駄目でさぁ。
いつもメンバーに作ってくるお菓子の味が殺人的で…。
なのに、今日もらったこれがうまいんだ」
俺はクッキーの包みをYU−KIに差し出した。
「君も食べてみてよ」
喜んで食べてくれるだろうという俺の予想に反して、
YU−KIは下をうつむいたまま言った。
「いらない」
俺はその反応に一瞬戸惑った。
「…お菓子、好きだったろ?
大丈夫だって。このクッキーはおいしいから」
俺がすすめると、彼女はそれを拒否した。
「いらないってば!」
YU−KIは俺を突き飛ばし、
その衝撃でクッキーが床に散らばってしまった。
わざとではないとわかっていつつ、俺は彼女を咎めた。
「無理にすすめた俺も悪かったけど、
ここまですることはないだろ?!」
「だって…だってあなたがなんにも分かってないから!」
「俺が何を分かってないって言うんだよ?」
YU−KIは目をそらし、黙ってしまった。
俺が「おい」と声をかけようとしたのと同時にすっとソファーから立ち上がり、
デッキチェアの側に立った。
「でてってよ」
「え?」
「でてって!」
彼女は俺に背を向け向けながら怒鳴った。
彼女のその態度に俺は腹を立て、何も言わずに部屋を出た。
お互い、感情が高ぶっていた。
冷静に考えることができず、
自分の中のイライラをぶつけるところもなかった。
俺はそんな嫌な気分のままカウンターに向かい、酒をがぶ飲みした。
胃に入るだけの酒を流し込んだため、
酔いつぶれるのに時間はかからなかった。
遠のいていく意識の中で、YU−KIの歌声が耳をかすめた。
「喧嘩したんですって?」
耳元で声がするのが、はっきりと聞こえた。
うつぶせになっていた俺は、ゆっくりと顔をあげた。
「ああ…カンナか」
隣にはカンナが座っていた。
「YU−KI様と喧嘩したみたいね」
そう言われてさっきのことを思い出した。
「いや、喧嘩って程のことじゃないよ」
「ふぅん?」
俺はまた酒を飲もうとグラスを持ち上げると、
カンナはその手を止めた。
「飲んでばかりじゃ、何も解決しないわよ。
意識が無くなるまで飲むつもり?」
俺はカンナを見て、そしてグラスを置いた。
「…そうだな」
それからお互いに黙っていたが、俺が口を開けた。
「俺がバンドのボーカルの子について話したんだ。
それで今日その子からもらったクッキーをあげようとしたら、
YU−KIがいらないって怒ったんだ。
突然わけわかんなくて…」
「ばかねぇ」
カンナが平然とした顔で言ったので、
思わずついていたひじがテーブルからずり落ちた。
「な…」
「YU−KI様は嫉妬したんじゃないの?」
カンナはけろっとして言った。
「嫉妬?まさか…」
「これだから鈍感な男は…」
「YU−KIが…俺を?ありえ…」
「ありえないなんて言わせないわよ。
今まで気づかなかったワケじゃないでしょ?」
そう彼女に言われて、俺はぐっと黙ってしまった。
確かに、変だとは思っていた。
だけどそんなに深くは考えていなかった。
彼女が俺を―――…?
「マスター」
カンナが向こうでグラスをふいていた男性を呼んだ。
「なにかね?」
やってきたのはいつものバーテンだった。
優しそうな年配者で、ベストに蝶ネクタイをしていた。
「マスター、最近のYU−KI様を見てて…どう?」
マスターは目を細めて、向こうのステージにいるYU−KIを見た。
ふぅむ…と白いあごひげをいじりながら答えた。
「そうじゃね…硬く閉じていたつぼみが朝日を浴びて、
ゆっくりと開き始めたといったかんじかね。
最近この地下でもウワサになっとるよ。
YU−KI様はどこか変わったと」
「そっか…ありがと、マスター」
カンナがそう言うとマスターはにっこりと微笑み、
もとの場所へと戻り、再びグラスを拭き始めた。
俺の目の前にはマスターの陽だまりのような優しい微笑みが、
まだかすかに残っていた。
「今の聞いた?」
カンナの声にはっとした。
「恋する女は変わるのよ」
彼女は俺をじっと見ていた。
「それに、よかったじゃない」
「なにが?」
彼女はテーブルの上に腕を組んだ。
「YU−KI様がそんなに感情を表にだしたのって、初めてじゃない?」
彼女に言われて初めて気が付いた。
そういえば、あんなに激しく感情をだしたことは今までになかった。
「あの無表情だったYU−KI様から考えられないことだわ」
ため息まじりにカンナは笑った。
「そういえば…そうだな。
初めて会った時は考えられないことだった。
最近、普通に接していることが当たり前すぎて気が付かなかった」
「あなたがYU−KI様を変えたのよ」
そう言いながらカンナは、俺の目の前に何か差し出した。
一本の大きなひまわりだった。
「これは?」
「YU−KI様から」
彼女の手からそれを受け取った。
茎の真ん中あたりに赤いリボンが結んであり、
白い紙がとめてあった。
俺はリボンをほどき、丸まってしまったその紙を広げた。
「YU−KI様って、かわいいわよね」
「ああ…」
そこには『ごめんなさい』と一言書かれていた。
酔いをさましてから、俺はYU−KIの部屋に向かった。
もちろん、感情的になってしまったことを謝るために…。
でも、どんな顔をして会えばいいのだろう。
彼女の気持ちにまさかという可能性を否定しつつ、
心は正直だった。
胸の高鳴りを抑えることができなかった。
とにかく、今は謝罪することの方が先決だ。
平常心を保とうと部屋の前で一呼吸おいた。
「よし」とドアノブを握り、一気にドアを開けた。
「YU−KI、さっきは…」
そう言いかけて、俺はその場に立ち止まってしまった。
全身から力がぬけて、右手からひまわりの花がするりと落ちた。
目を疑ってしまいたくなるような光景だった。
こちらを向いてソファーに座っていたYU−KIは、
一人の男性を抱きしめていた。
その男の首に腕をまわし、男はYU−KIに身をまかせていた。
YU−KIの口元を見ると、唇の端から一筋の血が流れていた。
そして、冷たい目で俺をじっと見ていた。
それはまるで、俺の存在や価値を認めないような、
俺自身が消されてしまうんじゃないかと思うようなひややかな視線だった。
あまりの冷たさに、背筋がぞくっとした。
俺は鉛のように重くなった足を力いっぱい動かし、
そのまま部屋を出て、暗闇の中を突っ切った。
我を忘れて、ただ走り続けた。
ふと、ある言葉が脳裏をかすめた。
『もしかしたら、彼女は吸血鬼なんじゃないかって』
俺は自分を落ち着かせるために、さっきの光景を振り返ってみた。
背を向けていたからよく分からなかったが、
男はYU−KIに身を任せていた…というより、
ぐったりとした感じだった。
YU−KIの口元からは一筋の血が流れ――…
いや、まさか。彼女が人間の血を吸うわけがない!
しかし、そう信じてしまいそうなくらいあの場の雰囲気は尋常ではなかった。
彼女のあの目は人間とは…この世の者とはおもえないような冷たい目だった。
ありえないと思いつつ、
彼女が吸血鬼であるというほんのわずかな可能性に、心が傾いていた。
「きゃあ!」
俺が全力疾走していると、思い切り人にぶつかってしまった。
その衝撃で、ぶつかった人と俺はその場に倒れた。
倒れたまま俺は立ち上がることができず…というより、
立ち上がることを忘れるくらい頭の中は真っ白だった。
「いたた…って、克也さんじゃない?大丈夫?」
そう言って顔を覗きこんできたのは、カンナだった。
「ものすごい勢いで走ってきたけど…どうかしたの?
うわ。すごい汗…それに顔色もあまりよくないみたい」
カンナに支えられるようにして、俺はゆっくりと体を起こした。
座ったまま、息が整うのをしばらく待った。
額から汗が何度も何度も静かに流れた。
頭の中は何も考えられなかった。
考えるより、先に言葉がでた。
「俺、もうここにはこない」
言ったと同時に立ち上がり、俺はまた駆け出した。
「え?ちょっ…克也さん?!」
わけのわからないまま俺の名を叫ぶカンナを後にして、走り続けた。
胸が苦しくて、足もガクガクしはじめて、
もう走れないというくらいふらふらになりながらも、
俺は走り続けた。
走って、走って、気が付くと街中にいた。
会社帰りのサラリーマン、飲み会帰りの男女のグループ、
携帯を片手に地面に座っている女子高生。
夜だというのに、街はまだ活気づいていた。
人の往来の中、俺は一人立たずんでいた。
今、自分がどこにいるのかさえはっきりしなかった。
ただ、ずっと立っているだけだった。
しばらくして、冷たい感触が俺を包んだ。
周りの人々は家路を急いでいた。
そんな中で俺一人だけは、
ゆっくりと一歩一歩前へと歩き出した。
まるで、行き場を失った亡者のように…。
降り続く雨が、俺の姿をかき消すようだった。
なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう。
『ここにはこない』
まるで、他人が言っているように聞こえた。
俺じゃない誰かが…。
もやもやとした感情が、俺の中で渦まき始めた。
あの地下にはいたくない。
そんな衝動に駆られて、思わず飛び出した…でも、
それは単なる逃げでしかなかった。
あの状況から、YU−KIから逃げ出してきただけだ。
自分が傷つくかもしれないと、察したから。
そのせいで、こんなにも心がぽっかりとしてしまった。
そしてあの光景を思い出すだけで、俺を無気力にさせる。
思い出したくないのに、しっかりと目に焼きついている。
彼女は人に干渉されるのが嫌いだったにもかかわらず、
俺にたちいることを許した。
あの部屋に出入りできていたのは、カンナと俺だけだった。
そのことに俺は一種の優越を感じながら、
嬉しく思っていた。
なのに、他にも彼女に近づくことを許されている人間がいたなんて。
彼女にとって必要なのは、俺だけじゃなかった…。
今までのはなんだったんだ?と思うと、
自然と全身から力が抜けた。
他にも俺のようなやつがいたんだと思うと、いたたまれなかった。
怒りと、嫉妬が入り混じる中で、ある言葉が浮かんできた。
今まで、その言葉を認識してしまうことが恐くて、
何度も気づかないフリをしてきた。
しかし今となっては、俺の目の前にはっきりと姿を現している。
俺以外の人間が彼女の側にいてから、やっとそのことに気づくなんて、
俺はなんと愚かなんだろう。
彼女の心の中に俺はいない…俺を排除するようなそんな目だった。
あの二人だけの世界に誰一人踏み込ませまいという、
他のもの全てを消しさるような目だった。
俺はYU−KIが分からなくなった。
君は一体誰なんだ…?
考えても考えても答えが見つかるわけがなかった。
俺は彼女のことについて、何一つ知らなかった。
だけど彼女のことを何一つ知らなくても、関係なかった。
彼女の側にいることが、俺の幸せであったから…。
失って初めて気がついた。
当たり前にあると思っていたものが、どんなに大切なものだったのか…。
俺が側にいたんじゃない…
君がずっと側にいてくれたんだね。