幻想の調べ
一晩中雨に打たれた俺は、風邪をひいて寝込んでしまった。
40度近い熱をだし、頭がもうろうとしていた。
一人暮らしをしていた俺は、食事はままならず、
病院に行くことさえもできずに、
このまま本当に死んでしまうのかと思った。
こんな時、親のありがたみがわかるというものだ。
夜と昼の違いが分からないくらい、
俺はずっと眠り続けていた。
こんなに熱をだして寝込んだのは、これが初めてだった。
遠のいていく意識の中に、彼女がいた。
そして、俺に歌いかけてきた。
まるで隣にいるかのように…。
俺の全身が彼女を求めていた。
「YU−KI…」
物音一つしない暗い部屋の中で、ぽつりと彼女の名を呼んだ。
あたたかい返事が返ってくるかわりに、冷たい空気が答えた。
孤独感が一層増した。
今度は心の中で、何度も何度も彼女の名を呼んだ。
そして、彼女が泣いたあの日のことを思い出し、
夢の中の彼女を抱きしめた。
「克也、克也」
夢の中で、俺を呼ぶ声が聞こえた。
「克也!」
その声が夢ではないと気が付いて、目を開けると広雅がいた。
「起きてくれよ。
俺はおまえを一人でベットに運べない」
自分がどのような状況にいるのか理解するのに時間を要した。
「2、3日大学に顔をだしてなかったから、携帯に電話をしたけどでないし、
家の方は留守電になってるし…。
なんかあったんじゃないかと思ってきてみたら、
おまえがここにぶっ倒れててさ」
「…おまえ、どうやって家に入った?」
「もらった合鍵を使った」
そうだった…。
一人暮らしの俺になにかあった時のため、広雅には俺の家の鍵を預けていた。
渡したことを忘れるくらい、今まで合鍵を必要とすることはなかった。
「なんだってこんな所で寝てるんだよ?」
そう言いながら、俺が立ち上がるのに広雅は手を貸してくれた。
なぜ俺は玄関近くの廊下に倒れていたんだ?
立ち上がってふと横を向き、トイレのドアが目についた瞬間、
記憶がよみがえった。
俺は力をふりしぼってベットから起き上がり、トイレに行った。
用を済ませ、トイレからでたその後から記憶がない。
おそらく、力つきてその場に倒れてしまったのだろう。
「ちょっと待ってな。おかゆ、つくってきてやるから。
食欲なくても少しは食えよ」
広雅は、俺をベットに寝かせてから台所に向かった。
そしておかゆをつくりながら、俺の額に濡れたタオルをおいてくれたり、
着替えるためのパジャマをタンスから持ってきてくれたりした。
「さぁ、できたぞ」
広雅がおわんにおかゆをよそい、それを俺に手渡した。
俺はスプーンですくい、よくさましてから口へと運んだ。
温かい食べ物はゆっくりと俺の胃の中へと流れていった。
「うまいよ。ありがとう」
広雅は満足そうに笑った。
俺は良い友達をもったと、世界中に自慢したい気分だった。
「おまえが風邪をひいても、おまえには家族がいるから安心だな…。
他に何か困ったことがあったら俺に言えよ。助けるから」
俺がそう言うと、広雅は首を横に振った。
「俺はもう十分に助けてもらったから」
俺が日常生活を普通におくれるようになったのは、
それから一週間くらいあとだった。
体のだるさがなかなかぬけなくて、体力もかなりおちていた。
久しぶりに外に出て、太陽の光を浴びた。
まるで生まれ変わったかのような新しい気持ちになれた。
その日は2限から講義があったので、
俺は軽い足どりで大学へと向かった。
チャイムが鳴ると同時に教室に入り、後ろの席に座った。
その十分後に教授が堂々とやってきて、授業が始まった。
俺の頭の半分はその話を真面目に聞き、
半分は違う世界へふっ飛んでいた。
適当にノートをとっていると、滑り込むように隣に誰かが座ってきた。
「はよ。もう具合はいいのか?」
「おかげさまで」
広雅は俺の顔色を確認してから、
ノートやらふでばこやらを机のうえに出した。
その後はお互いに何も言わず、授業を受けた。
「なんだって?」
大学の帰り、近くの店で広雅と俺が飲んでる時だった。
広雅からの話に、俺は耳を疑ってしまった。
「だからさ…YU−KIがステージに立たなくなったんだよ」
そのことをどう解釈していいのかわからなかった。
つまり…彼女が現実の世界へと戻ったことを意味しているのか?
結局、俺はなにもできなかった。
彼女を助け、導いたのは俺ではなく…あの男。
「よかったじゃねぇか。これで一件落着。
俺も用済みってわけだ」
俺はグラスを手にしながら言った。
それから酒を口にしようとした時だった。
「…だとよかったんだけどな」
広雅はため息まじりにそう言うと、
持っていた酒の入ったグラスを静かに置いた。
「何か問題でもあるのか?」
嫌な予感がした。
広雅はゆっくりと口をあけた。
「…地下にある、自分の部屋から出てこなくなったんだ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
俺が風邪で寝込んでいる間に、状況は悪い方向へ進行していた。
「原因は分からないんだ。突然部屋に引きこもって、
誰も寄せ付けないんだ…あのカンナでさえ、
彼女に近づけなくなった」
「カンナもか?!」
俺は思わず大きな声を出した。
事態はかなり深刻であった。
YU−KIの一番近くにいたあのカンナでさえ、
彼女に近づけなくなったのだ。
それだけで事の重大さが分かった。
「彼女の側近たちは頭をかかえているよ。
どうやっても彼女はあの部屋から出てこないんだ。
地下の人間たちは彼女の異変には気づいてないが、
それも時間の問題だろう。
毎晩ステージに立っていたYU−KIが、
ぱったりと姿を見せなくなったのだから」
胸騒ぎがした。
彼女に何かが起こった。
もしかして、俺が地下に行かなくなったからか?
いや、でもあの男がいるから俺は必要ないはずだ。
アイツも何をやっているんだ!?
こんな時に…こんな…
彼女が心を閉ざしている時に…!
「今、彼女を救えるのは克也…おまえしかいない」
俺は広雅を見た。
「YU−KIを助けてやってくれ」
その広雅の真剣な眼差しから逃れるように、俺は視線をそらした。
「いや…俺には無理だ」
「何言ってんだよ!?
彼女が心を許したのはおまえしかいないんだぞ?
今、彼女が必要としているのはおまえなんだよ!」
「俺だけじゃなかったんだよ…心を許したやつは。
俺以外の男が彼女の部屋にいて…」
あの時の映像が頭の中でよみがえった。
二度と見たくない光景。
「もし、おまえ以外に心を許したやつがいたとしても、
そいつが必要とされてないからYU−KIが今あんな状態になってんだろ?
おまえなら彼女にされてる自信、あるだろ?」
自信…そんな自信は少しもなかった。
でも、今本当に彼女が俺を必要としてくれているのなら…
俺という存在を認めてくれるのなら…
「行けよ」
広雅の一言が俺の背中を押した。
俺は店を勢いよく飛び出し、夜の街を走り抜けた。
他のものには目もくれなかった。
ただひたすら彼女のもとへと急いだ。
たとえ、彼女に会うことを拒否されても構わない。
今までの迷いや不安はすっかり消えてしまった。
彼女に会いたい。それだけだった。
一歩一歩走る度に不安と緊張が高まり、
夜の闇が一層その気持ちを高まらせた。
どんなに急いでも地下までの道のりがとても長く感じられ、
そのことが俺をイラつかせた。