幻想の調べ


    地下に降りると、空気が淀んでいた。
   皆、無気力といった感じで、なんだか肩が重くなった。
   「克也さん?!」
   後ろを振り向くとカンナがいた。
   「あなた…一体何週間ここにこなかったと思ってるの?
    今、YU−KI様が…!」
   「わかってる。そのために俺はきたんだ」
   彼女を落ち着かせるように俺は言った。
   「ああ…でもあなたが来てくれて本当によかった…
    もう私たちの手に追えないのよ。
    どうか…どうかYU−KI様を助けて」
   カンナの涙ぐんだ目の下にはクマができていた。
   おそらくYU−KIのことで寝不足なのだろう。
   こんなにも彼女のことを心配してくれる人がいるのに…
   彼女はなぜそれに気が付かないのだろう。
   「それで…彼女は?」
   「ずっと部屋に…行きましょう」
   俺がカンナの後を追おうとした時だった。
   周囲がどよめいた。
   その変化の原因は何かとカンナと俺が足を止め、
   周りをきょろきょろと見回した。
   そして、俺の目にあるものがとまった。
   少し離れたステージの真ん中に、
   赤いサンドレスをまとった女性が姿を現していた。
   「YU−KI様…!」
   カンナは思わず両手で口を押さえた。
   ステージ付近に立っている人の間をすり抜け、
   俺は彼女に吸い寄せられるようにゆっくりと近づいた。
   一秒一秒が恐ろしいほど遅いペースで刻まれているようだった。
   ステージの前まで辿りつくと、
   俺の肩くらいまである高さの舞台の上にいるYU−KIを見上げた。
   YU−KIと俺はお互いをじっと見つめていた。
   まるで存在を確認するかのように…。
   YU−KIは俺の目をそらさず、その場に座りこんだ。
   彼女はそのまま姿勢を前にして、両腕を伸ばしてきた。
   それと同時に俺も両腕を伸ばし、
   受け止めるように彼女をしっかりと抱きしめた。
   「周りの皆に心配かけさせて、駄目じゃないか」
   俺はさらに強く彼女を抱きしめた。
   「もう、来ないかと思った」
   俺の耳元で、彼女のかすれた声が聞こえた。
   「君が俺を必要としてくれる限り、
    俺は君の側にいるよ」
   彼女は俺を抱きしめなおした。
   俺は彼女をステージから降ろし、
   抱きかかえながら人の間を通り抜けた。
   いや、むしろ外へ通じる出口へと一本の道ができてるようだった。
   誰も何も言わず、ただ俺たち二人を見届けた。
   周りの目は意外と気にならなかった。
   ただ腕の中にいる彼女の体温を感じ、
   彼女の存在を確認しているだけだった。
   一歩ずつ歩くごとに、何かが変化していくようだった。
   そして、YU−KIと俺は地下を後にした。

    我々は階段を上り、地上へとでた。
   今までいた建物から少し離れた建物まで歩き、
   入り口前の階段に二人は腰を下ろした。
   聞きたいことや話したいことはたくさんあったのに、
   なんと言っていいのかわからず、黙っているだけだった。
   俺は手を組みながら夜空を見ていた。
   いくつかの星々が見え、その夜は満月だった。
   月のやわらかな光が彼女の横顔を照らした。
   久しぶりに会ったせいか、彼女はやせた…というより、
   やつれたように見えた。
   彼女は一瞬目を閉じてから、俺に横顔を向けたまま言った。
   「あなたに話したいことはたくさんあるのに…うまく言えないわ」
   「それは俺も同じだよ」
   俺の鼓動がどんどん速くなっていくのがわかった。
   脈打つのが耳の奥で大きく聞こえた。
   俺はのどの奥から声を出し、彼女に尋ねた。
   「この前、君が抱きかかえていた人は…誰?」
   そう声に出したと同時に、
   俺の中でさらに鼓動が速さを増した。
   彼女の口から答えを聞くまでの間が、とても長く感じられた。
   「あの時あなたが突然入ってきて、正直困ったの。
    兄には会ってほしくなかったから…」
   この場に座ってから初めて彼女が俺を見たのと、
   彼女の言葉に俺はドキッとした。
   「あなたが見たあの人は私の兄…
    生まれつき体が弱くて、3年前に手術をしたの。
    それから兄は元気になったわ。
    でもたまに貧血をおこしたりするの。
    以前に比べたら、全然少なくなったけど…」
   彼女はぎゅっと膝を抱えた。
  「あの日…あなたが部屋に来る少し前に、兄が私に会いに来たの。
   話しているうちに兄が貧血で突然倒れてしまったから、
   私が支えになったの。
   ちょうどその時、あなたが来たのよ」
   何度もよみがえるあの場面。
   彼女が男の首に腕をまわして抱きしめ、
   男は彼女に身をまかせていた。
   あのぐったりした様子は貧血だったからなのか…
   全てのことが一本の線で繋がり、
   なんともいえない安堵感が俺を包んだ。
   「な…んだ。そっか…」
   俺は立って2、3段階段を下り、
   月に向かって思いきり伸びをした。
   そしてふり返って、階段に座ったままの彼女を見た。
   「ありがとう。話してくれて」
   彼女も安心したような顔つきで微笑んだ。
   「話せてよかった…私、誤解されたってずっと気にしていたの。
    次の日からあなたは来なくなったし。
    このままもう二度と会えないんじゃないかって不安だった。
    変に喧嘩した後だったし…あの時はごめんなさい」
   「いや、君が謝ることじゃないよ。
    俺の方こそ感情的になって、本当に悪かったと思ってる」
   二人の間にあったわだかまりが消えた。
   胸の中でつかえていたもやもやがはれ、心が満たされた。
   こうして彼女の側にいれるだけで嬉しかった。
   そしてその嬉しさのあまり、俺は余計な事を口ばしってしまった。
   「でも本当によかった…あのウワサを信じなくて」
   「ウワサ?」
   「…」
   しまったと言ってから後悔したが、もう遅い。
   「ウワサって何?」
   彼女が不安そうな目でこちらを見た。
   そんな目で見られてしまっては、はぐらすことができなかった。
   俺はため息をついて、仕方なく打ち明けることにした。
   「君が…吸血鬼だっていうウワサ」
   今思えば、なぜこんなウワサを少しでも信じてしまったのだろう…。
   それだけ彼女については何も分からなかったし、
   俺は彼女に対して不安を感じていたのだろう。
   彼女の反応が何もなかったので、俺はおそるおそる彼女を見た。
   すると彼女は震えていた。
   怒りといった類ではなく、笑いをこらえていたのだ。
   「私が…吸血鬼?」
   次の瞬間、彼女は大笑いした。
   俺はとても恥ずかしくなった。
   まさに、穴があったら入りたい状態だった。
   「あー俺があさはかでした。
    笑いたきゃ笑えよ」
   「ごめんなさい…でもおかしい」
   彼女が思いっきり笑っているのを見るのは初めてだった。
   その笑顔を見て、俺も自然と笑顔になった。
   「ところで、なんで私が吸血鬼だってウワサを信じたの?」
   彼女は笑いすぎで出た涙を拭きながら言った。
   俺は頭をかきながらしぶしぶ答えた。
   「そのウワサを聞いた時は信じなかったよ。
    でもお兄さんといる時、君の口から血が流れてたし、
    お兄さんもなんだかぐったりしてたから血を吸っているように見えて…
    なんだか恐かった」
   そしてあの目―――…
   身が凍りついてしまうような…他の人間を排除してしまうような目。
   でもあの目お兄さんを見られたくなかったから、
   単に俺にあの場にいてほしくなかっただけなんだね。
   「兄は貧血でぐったりしてただけだし、
    血は兄が倒れて支えた時に口の中が切れたのよ。それだけ」
   偶然が重なり合ってとんだ誤解がうまれた。
   真実が分かってすっきりした。
   青空の下、何もない青々とした草花が生える広い草原に立っているように
   気持ちがよかった。
   とてもすがすがしかった。
   「じゃあ…戻ろうか」
   そう言って俺が手をさしだすと、彼女はその手をとらなかった。
   行き場のない手に俺が困っていると、彼女が言った。
   「私…もうあそこには戻らない」
   「え?」
   正直、驚いた。
   彼女は泣きそうな顔をしながら笑っていた。
   「あなたが私のもとへ来てくれる度に、
    生きたいっていう想いが強くなっていったの。
    生きる気力を失くしかけた私に勇気をくれた大切なあなたの隣にいたい…
    そして同じ世界で一緒に生きたいと思った。
    そしたら現実逃避してる自分が嫌になった…だからもう、
    あの場には戻らない…そう決めたの」
   一つ一つの言葉に生気を吹きかけるように、
   彼女はしっかりと自分の想いを話してくれた。
   俺はその一つ一つを残さず受けとめた。
   「私、もとの生活に戻る。そしてもっと強くなる。
    そしたら、またあなたの前にあらわれてもいいですか?」
   彼女の目は涙でいっぱいだった。
   俺は階段に座ったままの彼女の前でひざまつき、
   優しく微笑んだ。
   「俺も、もっと強い人間になるよ。
    君のそばにいられるように…」
   我々は別れを惜しむかのように抱きしめあった。
   俺は彼女のぬくもりを感じ、愛しく思った。
   「必ずあなたに会いに行くわ」
   その一言を最後に、彼女は俺の腕の中から名残惜しそうに離れた。
   彼女と俺はそれぞれの道を歩むために別れた。
   でもこれが永遠の別れではない。
   生きていることを見失わない限り、二人はきっとまた会える。
   それは何ヵ月後、何年後になるかもしれない…
   それでも俺は彼女のことを忘れない。
   ずっと、ずっと君を待っているよ。
   俺は彼女が歩きだしたのを確認するかのように見送った。
   こうして、彼女は新しい世界へと姿を消した。
   夜空の月の下、俺は歩きだした。
   自分の足で一歩一歩、新しい道を開くように。

    再び日常生活が始まった。
   しかし、以前とは違う日常生活であった。
   なんとなく生きていくのではなく、自らの意志で生きていこうと思った。
   そのために、俺にはやるべきことがたくさんあった。
   まず、バンドに戻った。
   俺がバンドに戻ると、皆あたたかく迎えてくれた。
   そして仲間たちとの活動が再開した。
   大学の講義も真面目に受けるようになった。
   バイトも新しく始めた。
   今、自分にできることを精一杯やった。
   毎日がとても充実していて、とても楽しかった。
   生きているという実感が、体の底からわきあがっていた。
   そんな目まぐるしい生活に身を置きつつ、
   彼女のことは決して忘れなかった。
   忘れない…そして、この心は誰にも触れさせない。
   俺のこの心も全て君だけのものだから―――…
   君は今、どこにいる?
   何してる?
   この同じ世界に生きている…そう信じている。
   …会いたい。君に今すぐ会いたい。



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