幻想の調べ


    季節はめぐり、肌寒い風が吹き始めるようになった。
   木々の葉も散り、周囲の景色を見るだけで冬の訪れを感じることができた。
   俺は少し地厚のジャケットにジーパンをはき、
   大学の中庭を歩いていた。
   さっき4限目の授業を受けている時、広雅からメールがあった。
   授業が終わったら中庭に来てくれとのことだった。
   どうせまた夜まで時間を潰して、飲みに行こうという
   いつものパターンだろうと思っていた。
   中庭を見まわすと、
   隅のベンチに座って煙草を吸っている広雅を見つけた。
   俺は何も言わずに彼の隣に座った。
   広雅はそのまま煙草を吸い続けた。
   大きなため息をつきながら煙草の煙を吐き出すと、
   ポケットから携帯の灰皿を出し、そこに煙草をもみ消した。
   しばらく黙っている広雅の様子を見て、何かあるのだろうと思った。
   彼が自分から話すまで、俺も黙っていることにした。
   5限目が始まるチャイムが鳴った。
   俺はそれを意識の遠くの方で聞いていた。
   ただでさえこんな寒い季節に中庭にいる人は少なかったのに、
   さらに人は消えていった。
   中庭には広雅と俺しかいなくなった。
   俺は寒さに耐えかねて、広雅に声をかけようとした時だった。
   「おまえに、会わせたい人がいるんだ」
   思いがけない一言だった。

    広雅のいう俺に会わせたい人とは、
   駅前のカフェで待ち合わせているとのことだった。
   二人がそのカフェに向かっている時、お互いに無言だった。
   俺はなんて話しかけたらいいのか分からなかったし、
   広雅も何も言わなかったからだ。
   これから会う人物は、広雅にとって重要な人物なのだろう。
   だから、下手にちゃかすことはできなかった。
   俺はただ、相手がどんな人か想像をめぐらすことにした。
   おそらく女性であろう。
   それから想像をふくらませようとしたが、どうしてもできなかった。
   広雅が好む相手なんて考えられなかった。
   今まで女性の話をしたことはなかったし、
   広雅は女性に興味がなさそうだった。
   だからといって同性に興味を持つというような危ない道に、
   はしっているわけではなかった。
   男女問わず、他人に興味がないといった感じだった。
   今考えてみると、広雅はあまり人をよせつけなかった。
   まるで、人との接触を避けるかのようにいつも一人だった。
   そんな広雅が俺とつきあっているのはある意味、
   奇跡と呼べるものなのかもしれない。
   いろんなことを考えているうちに、駅前のカフェに着いた。
   中に入ると店内は思ったより広く、
   赤茶色のテーブルと椅子がきちんと並べられていた。
   やや暗い照明が落ち着いた雰囲気をかもしだし、
   コーヒー豆のにおいが漂っていた。
   客の入りはところどころにぽつぽついるくらいだった。
   カップを片手に本を読んでいたり、ノートに何かを書き込んでいたり、
   何もしないでただぼーっと座っていたり、人それぞれだった。
   広雅は奥の方へと進んだ。
   その先には一人の女性がソファーに座って、コーヒーか何かを飲んでいた。
   女性はこちらに気づき、持っていたカップを置いてから立ち上がった。
   その横に広雅が立ち、俺が少し遅れて二人の前まで来た。
   そして改めて近くでその女性を見た時、俺はドキッとした。
   膝丈の黒いフレアースカートに赤いハイネックのセーター。
   肩のあたりで綺麗に切りそろえたやや茶色がかった真っ直ぐな髪。
   この女性は…。
   「紹介するよ。橘 夕希」
   「橘 夕希って…まさか」
   「そう。こいつは俺の妹」
   広雅から聞いた言葉を、うまく頭の中に入れられなかった。
   目の前にいるこの女性を俺は知っている。
   地下で出会ったとても不思議な女性。
   彼女の歌声に、誰もが酔いしれる。
   そう…橘 夕希というこの女性は、あのYU−KIに間違いなかった。
   さらに驚くべきことは、広雅の妹だという。
   俺はつばを飲み込み、確かめるように彼女に尋ねた。
   「君は…YU−KIなの?」
   彼女は黙ってうなずいた。
   「今まで黙っていて、ごめんなさい」
   とてもすまなそうに、
   そして今にも泣き出してしまいそうな目で俺を見ながら言った。
   信じられなかった。
   俺は騙されているのかと思った。
   頭の中で何も考えられなかった。
   ただ、ただその場に呆然と立ちつくしているだけだった。
   「結果的には騙したカタチになってしまったが、
    べつにおまえを騙して楽しんでたとか、そんなんじゃないんだ。
    それだけは分かってほしい。本当にすまなかった」
   そう言って広雅が頭をさげた時、俺はふと我に返った。
   広雅が親指で彼女を指した。
   「こいつの話を聞いてやってくれないか?」
   俺はぎこちなくうなずいた。
   「じゃあ、俺がいるより二人で話した方がいいだろう…
    俺はこれで失礼するよ」
   広雅はやや放心状態の俺を椅子に座らせた。
   そして、引き止める間もなく広雅はカフェのドアを開け、姿を消してしまった。
   それを見ていた俺の目には、彼が妙に大人びて映っていた。
   視線を前に向けると、夕希はさっきまで座っていたソファーに腰を下ろしていた。
   それから不安そうな顔つきを俺に向けながら、ゆっくりと話し始めた。
   「黙っていてごめんなさい。
    謝っても仕方のないことだけれども…。
    全てをちゃんと話したいのだけれど、何をどう説明すればいいのか…」
   彼女が混乱しかけていたので、俺は問いかけた。
   「広雅は、体が弱いのか?」
   俺は広雅が体が弱いということを全く知らなかった。
   いたって健康に見えたし、そんなこと考えたこともなかった。
   「…ええ。兄は体が弱かった。
    よく病院に通っていて、学校も休みがちだった。
    そのせいで友達と呼べる人が一人もいなかった。
    いつも一人で、とても寂しい人だったの。
    手術をして、高校に行くことが多くなっても、決して友達はできなかった。
    むしろ、つくらなかったのかもね…。
    ずっと一人でいることが多かったから、その方がラクになったのかもしれない」
   夕希はカップをいじりながら話を続けた。
   「始めは、高校にも大学にも行かないって部屋にとじこもっていたんだけど、
    ある日突然、大学に行くと言いだしたの。
    せっかく手術をして元気になったのだから、新たに頑張りたい。
    だから大学に行くと。
    心配していた両親はもちろん賛成した。
    私も兄がいい方向にいくようにと喜んだわ。
    それから兄は今まで病気のためにおろそかになっていた勉強を取り戻すため、
    一生懸命に頑張ったの。
    きちんと卒業するために高校にも通ったわ。
    そして、見事に希望の大学に受かった。
    そこから兄にとって新しい生活が始まるはずだった。
    でも、一人でいる時間が長かった兄にとって、
    大学もやはり馴染めない場所だった…。
    せっかく努力して入った大学に行くことは止めなかったけれど、
    人づきあいを避けていた。
    そんな時、兄はあなたに出会ったの」
   初めて広雅に声をかけた場面が、俺の頭の中でよぎった。
   怪訝そうに俺を見た広雅。
   あの頃の広雅は、人と関わることを恐れ、たった一人で孤独だったんだね。
   「兄にとって、初めてちゃんと友人と呼べる人ができたの。
    それがよっぽど嬉しかったのね。
    あなたとのこと私に話してくれたの…しかも毎日。
    兄はよく言っていた。
    『克也に会えてよかった。あいつのおかげで俺は救われたんだ』と」
   それは俺も同じだった。
   単調な生活を送りながら、うんざりしていた俺に変化をもたらしてくれた。
   俺は広雅からいろんな影響を受け、良い刺激を与えられた。
   会って間もなかった頃でも、昔からの友達と思えるくらい心を許せた。
   きっと、広雅と俺は二人で一人だったのだと思う。
   お互いが足りない部分を補い合うことで、
   一人の人間としてココに存在できたのだろう。
   夕希はカップをいじっていた手を止め、カップを包みこんだ。
   「それで私、あなたに会いたくなったの」
   その言葉に俺はドキッとした。
   「でも、なぜか兄はそれを許してくれなかった…
    だから私は兄があなたのバンドのライブに行く時、こっそりついていったの」
   夕希は肩をすくめて笑った。
   「え…じゃあ君は、俺のバンドのライブを見にきたことがあるのか?」
   「ええ」
   俺が驚いているのをよそに、彼女はさらりと答えた。
   「私が黙ってついてきたもんだから、兄も観念してあなたのことを教えてくれた。
    ステージで、ギターを弾いているあなたを…。
    あなたのいるバンドはとても良かった。
    私がいたバンドよりずっとずっとうまくて…
    妬ましくも、羨ましくも思ったの」
   「君は…バンドを組んでいたの?」
   俺は少し身を乗り出して聞いた。
   「ええ…高校の時にね。もう解散したけど…」
   彼女は嫌な過去を思い出すように話し続けた。
   「私、歌うことがとても好きだったの。
    それで、バンドではボーカルを務めていたわ。
    歌うことだけじゃなくて、曲を作ることも好きだった。
    どんな嫌なことがあっても、歌い始めればつらいことも忘れられた。
    バンドだけで歌うのだけじゃ物足りなくて、
    あの地下でも歌うようになった」
   俺がずっと気になっていた場所。
   「あの地下は何なの?」
   「バンドを通じて知り合った友人たちと、
    自由に歌える場所を求めて探し当てた場所なの。
    最初は何もない所だったんだけど、
    皆で手を加えていくうちに今の状態になった。
    それで皆で楽しく歌ったりしていたんだけど、だんだん人は去っていった。
    音楽から離れたり、プロとして活躍し始めたり…
    それぞれの道を歩みだした。
    そして私だけがあの場に残った。
    私があそこで歌っているとなぜか人が集まってきた。
    気が付くと、いつの間にか異様な空間が出来上がってしまっていた…。
    でも、私にはそんなこと関係なかった。
    私の歌を聴いてくれる人がいれば、それだけでよかった…けど、
    私は歌うことが恐くなってしまった」
   彼女の表情のトーンが一気に落ちた。
   その先を聞いていいのか、俺は一瞬迷った。
   だけど、なんとなく聞いた方がいいような気がした。
   「…どうして?」
   下を向いていた彼女は目だけを動かし、俺を上目づかいで見た。
   「私が作った曲をバンドで歌っていたりしたの。ある日ライブがあって、
    その中に私が今まで作った中で一番できがよかったと思える曲が組み込まれていたの。
    私はその曲をお客さんに早く聴いてほしくて、ワクワクしていた矢先だった。
    バンド仲間のうちの二人が話しているのを偶然耳にしたの。
    私のつくった曲に対しての批判だった。
    私が今までで最高だと思っていた曲を否定されたの。
    悲しくて、悲しくてしょうがなかった」
   彼女の悲しみが、俺の心の中に押し寄せてきた。
   俺だって、自分の作った曲を否定されれば身を引き裂かれる想いだ。
   彼女と同じ立場に立って考えられるからこそ、
   余計に切なくなった。
   「私はその二人に何も言えないまま、ライブ本番をむかえてしまった。
    一曲目の歌いだしのタイミングは完璧だった…なのに、
    声がでなかった。
    心から一生懸命叫んでも、それは声にはならなかった。
    そのライブは失敗に終わって…あとは想像がつくでしょ?
    みんなバラバラ。それから、私は地下でしか歌えなくなった。
    地下では歌うことができたの。
    そのせいで私は地下で歌うことが多くなったし、
    地下にいる時間が長くなっていった。
    でも心はからっぽだった。
    大好きな歌を歌っている時でも心はからっぽで、
    以前とは違って単に歌うという、無意識の行動になってしまった」
   彼女は寂しそうな目で俺から視線をずらし、ため息をついた。
   「私が歌うことに気力を失いかけてる時だった。
    虚脱感を感じながらあてもなく、街を歩いていると、
    たまたま通りかかったライブハウスから、
    耳にしたことのある曲が聞こえたの。
    まさかと思ってそのライブハウスに入ると、
    ステージにいたバンドの中にあなたがいた。
    兄と一緒に聞いた時の曲だったけど、
    違う曲かと思うくらい、うまくなっていた」
   自分たちのバンドのことを誉められ照れくさかったが、正直嬉しかった。
   そんな気持ちがそのまま表情に表れていた気がした。
   強張っていた彼女の表情も、話しているうちに、
   だんだん和らいでいった。
   「精一杯歌っているあなたたちを見て、自分が恥ずかしくなった。
    それでその場を立ち去ろうとした…でも次の曲が流れ始めて、
    私の足が自然と止まった。その曲に惹きこまれてしまったの。
    曲を聴いているうちに、私の中で何かが変化していった。
    心から歌を歌いたい。って、とにかく歌いたくてしょうがなくなったの」
   俺はそれがいつのライブで、どの曲か考えていた。
   しかし、考えても考えても分からなかった。
   俺たちは何回もライブをやったし、何曲も歌った。
   その中から、彼女の見たライブはいつので、どの曲かなんて見当もつかなかった。
   「…一体、どんな曲だったの?」
   俺は彼女に尋ねた。
   彼女は笑って答えた。
   「あなたが、私に地下で一番最初に歌ってくれた曲よ」
   ドキッとして一瞬、頭の中が真っ白になった。
   彼女に最初に歌った曲といえば、俺が作った曲だ。
   何度も何度もやり直して、初めて納得のいった曲だった。
   「あの曲が私の耳に残り、私の中で流れ続けた。
    ずっと覚えていたの」
   一つ謎が解けた。
   「だから俺が歌った時、君は正確なハミングができたんだね」
   彼女はうなずいた。
   「もう一度、あの曲を聴きたいと思っていた。
    だからあなたが歌ってくれた時、とても驚いた反面、
    とても嬉しかったの」
   彼女は心から嬉しそうな、あたたかな笑顔を俺に向けた。
   その顔を見て、俺もなんだか嬉しくなった。
   「兄があなたを初めて地下につれてきた時、
    私は歌うこと以外の全ての行為に対して無気力になっていた。
    そんな私を見て、兄はあなたを私のもとへつれてきたのかもね。
    あなたは、私と兄に変化を与えてくれた人だから…」
   俺は、この兄弟に振り回されていたのだという少々の腹立たしさを感じた。
   しかし、そんな感情はすぐに消えてしまった。
   それだけこの二人に出会えたことは、俺にとって大事なことだったからだ。
   二人の中に変化があったと同時に、俺の中にも変化があった。
   自分の意志で動くという生の尊さを…
   「あなたに出会えてよかった」
   「俺もだよ…」
   我々の間に静かで、とても穏やかな空気が流れていた。

    俺たちが店をでると辺りは暗く、冷たい風が吹いていた。
   「いい月だ」
   俺は、そうつぶやいた。
   その日は満月だった。
   輪郭がぼやけるくらい、月は光り輝いていた。
   あまりの美しさに見とれていると、頭がぼうっとした。
   二人の新たな出発にふさわしい月だった。
   まるで非現実的世界に生きているような、
   夢心地な気分だった。
   それは、隣に彼女がいるせいなのかもしれなかった。
   俺は彼女を見た。
   その視線に気が付いて、彼女も俺を見た。
   俺が笑いかけると、彼女も笑った。
   俺は彼女の手をとり、ゆっくりと歩きだした。
   今宵、我々は現実へと踏む出す。
   今度は一人ではない。
   そう、君と一緒に…。



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