果ての記憶


 走りにくい砂浜の上を一心不乱に駆けた。
砂が私の足に絡みついた。
やっとの思いで森に入ったが、彼の別荘がどこにあるのかなんてわからなかった。
 私はひたすら彼の名前を呼んだ。
 夜の森はとても深くて、昼間とは全然違う姿を見せていた。
鳥の羽ばたきや、風で揺れる木々の葉がこすれあう音にさえ怯えた。
私は、孤独に包まれた。
もう恐くてたまらなくて、このまま引き返そうと思った時だった。
「サヤッ!」
 目の前には、息を切らせた海斗が立っていた。
「お前、なんでここに・・・しかもびしょ濡れじゃないか」
 彼は近寄り、両手で私の頬を包んだ。
私は心まで包み込まれたようで、たまらず涙が流れ落ちてきた。
「ど・・・どうしたんだよ?とりあえず、俺の別荘においで?」
 彼が私を言い聞かせるように、瞳をじっと見つめる。
「ね?」
 もともと拒むつもりはなかったが、有無を言わせない彼のその落ち着いた声と深い瞳は、
私を素直に彼の言うことに従わせた。
 私は黙ってただうなずいた。
私の意志を確認すると、彼は私の手を引き、別荘まで連れていってくれた。
とても、優しくてあたたかかった。

 別荘に着くと、海斗はすぐにタオルを渡してくれた。
別荘は広くて、普通の一軒家みたいなログハウスだった。
私はリビングに通され、ソファーに座るように言われたが、
立ちつくしたまま、ガラス戸の向こうに広がる森をぼんやりと眺めていた。
 森は色を失い、ただ黒い陰影が広がるばかりだった。
空には星がいくつか瞬いていた。
私は遠い昔に、この空をここで今と同じように眺めたのだ。
「・・・私が五歳の時、マングローブに一緒に行った男の子は海斗、あなただったのね」
 私の一言で、グラスにお茶を注いでいた彼の手が止まり、
一瞬にして目の色が変わった。
 さっきとはまた違う瞳の深さ。
私は射抜かれてしまうんじゃないか?というくらい、彼にじっと見つめられる。
その瞳は、私の瞳をそらさせない力を持っていた。
 そのまま吸い込まれそうになってしまったので、それに負けじと、
私もしっかりとした視線で彼を見つめ返した。
「思い出したのか・・・?」
「うん。ここであなたに会ったこと」
「じゃあ、背中の傷のことも?」
「・・・」
 私の背中には、傷がある。
そして、なぜそれがついたのかはわからない。
けれど、私が溺れた事故に何か関連していることぐらいは、なんとなく予測がつく。
しかし彼の言い方には、それ以上にもっと別の何かがありそうな気がした。
私が知らない。といった風に黙っていると、
彼は私の横を通り過ぎ、背を向けてソファーに静かに座った。
しばらく黙り、その張り詰めた空気で私の足は床に張り付いてしまったようだった。
重い頭のせいで、真っ直ぐに立っている気がしなかった。
「・・・服を脱いで」
「え!?」
 一瞬、彼の言葉に後ずさりしてしまった。
全身をぞわぞわと、熱いものが駆け抜ける。
「上だけでいい。前は、そのタオルで隠せばいいから。
背中の傷が見えるようにして、そこの鏡の前に立って」
 海斗はそれ以上何も言わずに、ただソファーの上に座り続けた。
彼が言いにくそうに、でも言わなければいけないと、
自分を奮い立たせるようにしてしっかりと言っているのが、その声と後ろ姿からわかった。
私は顔から火がでるくらいに、その場から走り去ってしまいたいくらいに恥ずかしかった。
しかし、海斗が何か伝えようとしているのは強く感じたし、私は素直に彼を信じることにした。
静かで薄暗い部屋に、服と肌が擦れる音が耳に敏感に届く。
その度に私の手は、わずかに震えた。
そして、近くにあった全身が見える鏡の前にたどたどしい足どりで向かう。
鼓膜の奥で、鼓動が大きく打つのが聞こえる。
フローリングの上をひたひたと歩く私の足音が止まると、彼が「もういい?」と聞いてきた。
私は荒くなってきた呼吸を押さえながら、「うん」と小さく答えた。
彼は立ち上がり、顔を俯けたままこちらにゆっくりとやってきた。
緊張で乾いた口から、少量の唾液が喉をぎこちなく流れていった。
海斗は私の目の前まで来ると静かに顔をあげ、私の顔を見た。
彼はこの時を覚悟していたような顔つきだった。
前を隠しているタオルを握る手の力が、ぎゅっと強まる。
 不安そうに怯えている私に、彼はすまなそうににっこりと笑い、
「ごめん」と心からの謝罪を述べた。
 すると彼は、自分の右腕を私の目の前に差し出した。
昼間、私の目に留まった傷がそこにはあった。
 何かにひっかかれたような二本の傷跡。
彼はそこをゆっくりとなぞりながら言った。
「これはね、五歳の夏にできた傷だよ」
 私はまさかと思いながらも、それだけではいまいちピンとこなかった。
「溺れたサヤを助けようとしてできた傷だよ・・・」
 事実を聞かされた私は驚き、勢いよく顔をあげる。
 海斗は私の視線をかわすようにして私の横に立ち、右腕を私の背中にそっと当てた。
 私は感触をつかむだけで、背後で何が起こっているのか、
全く見当がつかなかった。
「そのまま振り返って、鏡を見てごらん」
 私は彼の言葉に従い、おそるおそる後ろの鏡を見た。
 まるでジグソーパズルの空白にぴったりおさまったように、
私の背中にある傷のぷっつり切れた空白の部分には、海斗の右腕の傷跡がはめ込まれていた。
 それは二本の傷跡として、完全な形でそこに存在していた。
「これ・・・って」
 私は言葉を失う。
「サヤが木の根から落ちて、その拍子にその辺の折れた木々のトゲで怪我したんだ。
俺は慌てて飛び込んでかばったんだけど、かばいきれずにきみの背中には大きな傷が残ってしまった。
それだけでなく、頭も切ってしまって2、3針縫ったんだ」
 海斗は話しながら、私の頭の縫ったであろうという付近を指先で優しくなでた。
「覚えてないだろう?」
 私は彼の問いかけに、うなずくことしかできなかった。
 頭はまったくといっていい程放心状態だったので、何も考えられなかった。
海斗からの言葉を頭の中に聞き入れて、一つ一つを整理してまとめていくことで精一杯だった。
それ以外のことはできなかった。
 自分の知らない過去が、一気に明らかになっていく。
それが真実なのかと考えたが、疑う余地もなかった。
 五歳の夏に出会ったのは彼、海斗に間違いなかったし、何より、背中の傷が何よりも事実を訴えていた。
「きみは事故のちょっとした後遺症で、五歳の夏のことが部分的に欠落してしまったと医師に診断されたことを、
きみの両親から聞かされたよ。
病院で安静にしていなければいけなかったから、俺が会いに行くことができなかった。
それに記憶障害がでているのに、俺が会って混乱させてしまうのが嫌だというきみの両親の気持ちを尊重したかったし、
俺としても負担になってしまうのは嫌だった・・・」
「海斗は?」
私は、鏡から彼の方へと顔を向けた。
「海斗はその時、この傷の他にも・・・?」
 あまりに不安で声が震えた。
 私がこれだけ傷を負ってしまったのに、彼が右腕の傷だけで済むわけがないと、胸騒ぎがして仕方がなかった。
 ところが、彼の答えは私の予想していたものと違っていた。
「いいや、俺はこの右腕の傷だけだよ」
 本当にそうなのかと、私は何度も聞いたが、彼の答えはどれも同じものだった。
 気にするな。という彼の笑顔が、私の涙腺を刺激した。
「ごめん・・・ごめんね」
 鼻をすする音と、しゃくりあげる声に私の言葉はかき消された。
 海斗は、私の肩を軽く叩きながら、私を包み込むようにして抱きしめた。
その腕の中は本当にあたたかくて、ここに来てからの不安ばかりだった心はようやく満たされた。
 生きてきてこれまで、こんなにも安心したことはないというくらい、私は彼に安らぎを与えられた。
「俺の方こそ、あの時もっと止めていれば・・・。しっかり守ってあげられなくて、
女の子なのに背中にこんな大きな傷を残してしまってごめんね」
「違う、違うよ」
私は首を大きく左右に振った。
「私が言いつけを守らなかったのがいけないんだよ。海斗が気にして、謝ったりしないで」
 私の涙は止まることを知らず、私は彼の胸の中で泣き続けた。
 彼と、自分の鼓動の音が聞こえた。命が呼吸している音。
 私はもしかしたら、あのマングローブの生える水面に飲み込まれてしまったかもしれない。
私がこうやって生きていられるのも、この人のおかげなんだ。
 そう思うと、心が切なくてたまらなくなった。
「記憶がないってわかっていても、
もしかしたら記憶を取り戻してここに戻って来てくれるかもしれないって・・・そう願っていた」
 海斗が、私を抱きしめる力を少し強くする。
「ずっと謝りたくて、会いたくて・・・夏になる度にこの別荘に来て、サヤを待っていたんだよ」









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