淡き想いとともに…
 

 20歳の約束の日――…
夏の日を浴びた新緑の似合う真っ白い教会の中に
私はいた。
赤や青や黄などの色鮮やかなステンドグラスにほのかな光が差し込み、
礼拝堂の中を柔らかな空気が包んでいた。
そこには、私以外の誰一人いなかった。
胸元に蝶々結びしたリボンが垂れ下がったちょっと丈の短いブラウスに、
裾がフリル状になった丈の長いスカート。
私は白い服を全身に身にまとい、
十字架の前で立ち尽くしていた。
そして、来ないとわかっていながらも
あの人が現れるのを、待ち続けた――…



 「えー!愛梨に彼氏ができたぁ?」
それはお昼休みのこと。
いつものように私は里美と愛梨と、
教室で昼食を食べていた。
大教室だったので私たちが大声をだしても、
周りの人たちはたいして気にしていなかった。
そもそも、中高とは違って大学生ともなれば、
逐一反応しなくなるものだ。
「えへへー。この前会った時に告白されました」
茶髪でさらさらなストレートヘアをいじりながら、
照れくさそうに言う愛梨。
べつにこの子に彼氏ができたからといって驚くことではない。
問題はその相手なのだ。
「だって…この前会ったてさ、メール友達とかいってた人でしょ?」
黒髪のベリーショートの里美が、
愛梨の顔を覗き込む。
「うん」
彼女はさらりと答えた。
そうなのだ。
愛梨の彼氏になったという男は、
半年前に知り合ったメル友のことなのである。
メールのやりとりで結構気が合ってたみたいで、
お互いに会うということになり、
その後も何度も会っていたようだけど…。
「だいたいメル友なんてさー、危なすぎなんだよ!」
里美は呆れながら言う。
愛梨が初めてメル友に会うと言った時、
「殺されるからやめなさい!」と、
誰よりも反対したのは彼女である。
「でもさー…」
「でも、ずっと好きだったんだよね?」
愛梨の言葉を遮って私が言う。
「うん、そう。なんていうんだろ…
 メールのやりとりの時から気になってた」
彼女は少し声のトーンを落とした。
「でもメールなんて何とでも言えるし、
 どんな自分もつくりだせるじゃない?
 だから彼もウソなのかと思ってた…けど、違った。
 彼はそのままだった。
 私は彼に会ってますます好きになってしまったんだ」
正直、私も里美と同じ意見だった。
だけど、こんな幸せそうに話す愛梨を見て、
メール友達なんて単なるきっかけにしかすぎない…
そう思った。
「いたっ!」
いきなり後頭部を何かで軽く叩かれた。
痛くはなかったけれど、反射的に言葉がでてしまった。
後ろを振り向くと、
男友達の広樹がノートを持って立っていた。
「べつに痛かぁないだろ」
広樹が怒ったような呆れ顔で言う。
私は無言で口を尖らせ、叩かれたあたりを手で押さえた。
「これ、この前借りたノート。
 サンキュ、助かったわ」
「ううん、どういたしまして」
私は彼からノートを受け取る。
「お礼に今度なんかおごってね」
「うわっ、そうくるかよ…」
広樹が苦笑いをする。
「仕方ねーな。
 じゃあまた今度なんかおごってやるよ」
「楽しみにしてる」
そういって広樹はにこやかにその場を去り、
私は手を振って彼を見送った。
「ちょっとぉ」
隣に座っていた里美が、私の肩に腕をのせてくる。
「な、なに?」
「アンタと立野って…どーなってんの?」
「は?」
私は口をぽかんとさせる。
「立野くんとあきえって、仲いーよね?」
前に座っていた愛梨がけろっと言った。
「月に何度かは一緒に出かけて、ほぼ毎日メールか電話もして…
 それでなんもないの!?」
里美が力を込めて言ったのを私は軽く打ち砕くように、
「うん」
と答えた。
里美はため息をつきながら机に突っ伏した。
「立野くんっていい人だよねー。
 すごく優しそうだし…」
愛梨がほのぼのという。
「うん…すごくいいヤツだよ」
私は静かに肯定する。
「立野くんじゃ駄目なの?
 あきえは彼氏欲しくないの?」
愛梨が身を乗り出して聞いてくる。
「んー…アイツはただの男友達だし。
 それに、私は彼氏とかそんなのいいから…」
私は彼女をなだめるように言ったが、
どうやら納得してもらえなかったようだ。
「なんでなんで?彼氏欲しくないの?
 もう大学三年生なんだよ!?
 このまま四年間全く恋もしないで、
 彼氏もつくらない気なの!?」
愛梨の力説に私が困った反応を見せていると、
里美が横から口を出してきた。
「あきえはあんたと違って恋愛中心で生きてないからねー」
「なっ!そんなことないもん!!」
「あら?そうかしら?
 恋愛してない時期なんて見たことないわ」
愛梨がふくれっ面をしながら、
それを面白がってからかう里美。
二人のそんなやりとりが私の意識からだんだんと遠のいていった。
“彼氏欲しくなの?”
べつにいらないわけじゃない。
街で一人歩いていると、
恋人たちがうらやましいと思ったりする。
彼氏持ちの女の子はとても幸せそうで、
生きがいがあるっていうか、
毎日に張り合いがあるっていうか…。
それに比べて自分は…って思うと、
心に隙間風が通る。
彼氏や恋愛が全てじゃない。
私は私なりにやりたいこと、
やらなけらばいけないことに精一杯で、
毎日それなりに充実している。
でも、たとえ親友や家族がいても、
自分の支えや励ましとなる異性の存在が欲しい…
そう心のどこかで願っていたりもする。


 週末に広樹と夕飯を食べに行くことになった。
この前のノートのお礼にである。
「どこがいい?」と聞かれたので、
私は二人でよく行く洋食屋さんを指定した。
「おまえ、あそこの店好きだよなー」
「だって、あの店のビーフシチューが大好きなんだもん!」
その洋食屋さんは広樹のバイト先でもあった。
以前、彼の仕事っぷりをこっそり見に行ってからというもの、
その店がすっかりお気に入りとなってしまった。
あまり人に知られていない穴場だったりするので、
大勢の人でがやがやしていることが少ない。
店内のレトロ調でゆったりと時間の流れる、
落ちついた雰囲気がとても好きだ。
ところどころ傷のついた木のドアを開けると、
カランコロンという鐘の音とともに、
「いらっしゃいませー」と、店員の声が聞こえてくる。
「おー、広樹か!」
そう言いながら、
シェフの格好をした20代後半の男性が出迎えてくれた。
「お疲れ様です」
広樹はにっこりと笑う。
「あ、キミここによく来る子だよね」
シェフの男性が私を見ていった。
私は恥ずかしがりながらも笑顔で返した。
「もしかしてさー、広樹の彼女なの?」
そう突然言われてしまったので、
反応に困ってしまった。
「違いますよー。
 からかわないでくださいよ、先輩」
広樹は平然と明るいノリで否定した。
「なんだぁ?隠さなくたっていいんだぞ?」
なんて、広樹の先輩は肘で彼をつつきながら
席に案内された。
私はビーフシチューのセットを、
広樹はオムライスを頼んだ。
店内は薄暗い照明で、
テーブルの真ん中に置かれたキャンドルの火がゆらゆらと燃えていた。
「早いよなー、もう夏だぜ?」
腕を組みながら彼がしみじみと言う。
五月が終わろうとしていた。
太陽と青い空が一番似合う季節がまたやってくる…。
「本当、一年なんてあっという間だよね」
私はそう呟く。
大学に入学したのがまるで昨日のように感じたが、
確実に時は流れている。
私たちはもう、大学三年生になっていた。
この三年間を思い出すように、
お互いに無言になった。
しばらくして、料理がテーブルの上に並べられた。
「いただきます」
同時に二人で手を合わせ、ほんの少し頭を下げた。
私はスプーンを手にとって、
ビーフシチューを口へと運ぶ。
懐かしい味が口いっぱいに広がる。
至福の時だ。
ふと、前からの視線に気がつく。
「なに?」
「いやー、あんまりにもおいしそうに食うからさ」
広樹がにんまりしながら私を見る。
「だって…おいしいんだもん」
私はそう言って、またビーフシチューを口へと運んだ。
料理を食べ終わってしまうと、
見た目は頑固そうだけど、
とても穏やかな店長さんがデザートをサービスしてくれた。
ガラスの器にプリンとアイスと山盛りのフルーツ、
そして生クリームが綺麗に盛られていた。
私たち二人はそれも残さずたいらげた。

 「お腹いっぱいで苦しいー」
店を出てから広樹と私は夜道をぶらぶらと歩いていた。
住宅街の、車の少ない広い道路を私の家へと向かって。
「おいしかった?」
隣の彼が尋ねたので、
「おいしかったー。ごちそうさま」
と、私は明るく答えた。
「それはよかった。
 こっちもおごりがいがあるってものですよ」
彼は満足気な顔をした。
いつものように最近あったことなどの
たわいもない話をしていると、
すぐに私の家に着いてしまった。
「送ってくれてありがとう。
 じゃあまた月曜にね」
私はそう言って家の中に入ろうとした時だった。
右腕をつかまれ、私は動けなくなった。
何事かと後ろを振り返って広樹を見ると、
彼の様子がいつもと違っていた。
「な…なに?」
声がかすれて、うまく言葉にならなかった。
緊張した空気が張り詰める。
私の右腕をつかむ手の力が少し強くなった気がして、
私は少しも動けなかった。
「あきえ…」
私の名を呼ぶ彼の声が、妙に大人びて聞こえた。
一台の車が私たちの横を通り過ぎ、
またあたりを静けさが包んだ。
「俺と付き合ってくれないか?」
空気がとまった。
「…え?」
今までにないくらいの真剣な彼の顔…。
私はその表情をただ見つめることしかできなかった。
「…いきなりごめん。
 でも、ずっと好きだったんだ」
そう言いながら、彼はつかんでいた私の腕をゆっくりと離す。
「急に…気持ち、伝えたくなった」
暗くてよくわからなかったけど、
彼の顔は赤くなっていたと思う。
そして、私も――…。
「返事、今でなくていいけど、
 結構マジだから真剣に考えて?」
私はぎこちなく頷くことしかできなかった。
「オヤスミ」
彼はそう言いって私の頭を軽くなで、その場を去った。
頭の中は真っ白で、何も考えることができなくて…
自分の鼓動が速く、大きく打っているのを感じていた。

 立野 広樹は、大学で知り合った友達である。
同じクラスでゼミも一緒だったので、
自然とよく話すようになった。
黒髪で、背の高い彼はとても感じが良く、
とても優しかった。
そんな彼のそばにいると私は安心できて、
心があたたまった…。
彼の優しさとあたたかさに私は甘え過ぎている。
そうわかっていても、
彼から離れることができなかった。
私たち二人のうちどちらかが喜べばともに喜び、
どちらかが悲しめばともに悲しみ、
そして励ましあった。
私にとって彼は大切な存在で…
今まで色々なことが明確にできずにいたけど、
今、一つだけ確かにわかることがある。
彼からの告白は、
とても嬉しかった。

 立ちつくしたままであった私は、
少ししてから家の中に入った。
すると、私宛に手紙が一通届いていた。
とても急ではあったが、
二週間後の日曜に小学校の同窓会がある
という知らせであった。
本来はもうちょっと前に私のもとへ届いている予定みたいだったが、
郵便番号が間違っていたため、
迷子になっていたようだ。
そのような消印が押されていた。


 当日、私は母校へと向かった。
広いグラウンド。
隅に置かれた錆びかけの鉄棒やジャングルジム。
校舎の半分は改築されてしまっていたが、
私たちの教室がある部分はまだ残っていた。
卒業してからは一部の人たちとしか会っていない。
皆揃って会うのが9年ぶりの同窓会だった。
一番上の三階まで階段を上り、
自分が学んだ教室までの廊下を歩く。
ちょっと高くなった目線から見るものは、
あの頃と何もかわらない。
窓から見える景色さえも。
まるで、当時の自分に戻っていくようだった。
教室のドアは開かれていて、
中には既に何人かが集まっていた。
黒板にはチョークで“6−2 同窓会”とハデに書かれていた。
机は長机のように並べられ、
その上には白いテーブルクロスがかけられて、
簡単な料理が用意されていた。
「きゃー!あきえじゃない!?
 久しぶり!」
声がする方を見ると、仲の良かった友達がいた。
「あ、久しぶりー!」
思わず笑みがこぼれる。
久々の再会を喜びあって大はしゃぎする。
皆が除々に到着し始め、
さっそく携帯番号を交換したり、
思い出話に花を咲かせたりしている。
外見は大人びてしまっていて、
一目じゃ誰かと認識できない人も中にはいるが、
基本的には皆変わっていない。
あの頃のままだ…でも、
あの人だけはいない。
今にもひょっこり現れそうで、
周りをきょろきょろしてしまう自分に苦笑した。
来るハズがない。
そう頭の中で理解しつつも、心は受け入れきれなかった。
当時とは何も変わらない空間の中、
あの人がいないというぽっかりした感じが、
私に影を落とした。
せっかくの場を壊してはいけない…と、
普通に明るく振舞い、
溢れ出しそうな涙を堪えた。
もう、昔には戻れない――…。
そのことが重くのしかかってくる。
足の先からすぅっと力が抜けていく感じがした。
コワかった。
小学校に来れて、友達に会えて嬉しかったけど、
もしかしたら私はここに来るべきではなかったのかもしれない。
忘れかけていた、
消え失せてしまっていたと思っていた気持ちが、
一気に私の中に流れ込んできた。
ささいなことで簡単に戻ってしまう。
心はもろいながらも、強く、
強く覚えているのだった。


 いつもと変わらずに日が昇り、
街が動きだす。
また、新たな一週間が始まる。
私はいつものように大学に行き、
授業を受けた。
帰りはいつもと同じように広樹と帰った。
彼とは普段通り話してるつもりだったが、
どこか上の空だった。
気がつくと、家の前まで来ていた。
偶然にも彼と私の家は同じ駅なので、
大学の帰りが一緒の時はこうして送ってくれる。
「それじゃ、また明日な」
そう言って自分の家へ向かおうとする彼のシャツを引っ張って
ひきとめた。
「…なに?」
彼の顔を見ずに、
私は俯いていった。
「ごめんなさい…私、広樹とは付き合えない」
この言葉を言葉にするのが嫌だった。
二人の関係に支障がでてしまうのが嫌だった。
彼のシャツからつかんでいた私の指がするりと落ちた。
風に揺れる木々の音が微かに聞こえ、
それが止むと沈黙が長い間包んだ。
恐くて、彼の顔が見れなかった。
「…俺のこと、嫌い?」
「そんなことっ…!」
彼の言葉を否定した拍子に思わず顔を上げてしまい、
自然と彼の顔が目に入ってしまった。
とても切なげな表情で、心が痛んだ。
「実は俺、この三年間ずっとあきえが好きだったんだ。
 でもおまえって恋愛に全然関心がないって感じで…
 告白してもこうやってふられるってわかってたから、
 今まで言わなかった。
 友達としてでなら、おまえのそばにいられるから…」
…知らなかった。
広樹が三年間、私のことを好きだったなんて。
確かに、好意は感じていた。
だけどそれは友達としてなのかと思っていた。
こんなにも近くにいたのに、
気がついてあげられなかった。
広樹に腕を引き寄せられ、
彼の腕に包まれた。
私は抵抗しなかった…嫌ではなかったから。
彼の鼓動とぬくもりを感じた。
彼の息づかいが耳もとで聞こえる。
「…あきえの心には、誰がいるの?」
――…ダメ。
「誰の影を追い求めているの…?」
次の瞬間、私は彼を突き飛ばした。
――…フレナイデ。
彼の持っていた鞄が地面に落ちた。
――…ダレモ フレナイデ。
私は前に垂れた髪を無意識にかきあげた。
彼は気づいてる…私の心に。
いたたまれなくなって、
私は何も言わずに家の中に駆け込んだ。
一目散に部屋に駆け込み、
ベットにうつ伏せになって倒れこんだ。
涙が、横に流れていく。
ここで堪えなければいけない…と思っていても、
ソレは以前より増して大きく、強くなって私を覆う。
今さら思い出に浸ってどうするの?
悲しくなるだけだわ。
そう自分に言い聞かせても、
当時のことを鮮明に思い出すことはたやすいことだった。



 小学校の時、いつも私につっかかってくる男子がいた。
五年生のクラス替えで初めて一緒のクラスになった
『川瀬 浩』というヤツだ。
基本的には気が合っていたのだと思う。
しかしお互いに意地の張り合いばかりで、
いわゆる喧嘩友達といったところだった。
浩にはいつもからかわれ、私はムキになった。
妙に気になる存在で、
いつでも近くにいてくれないとなんだか落ちつかなかった。
私たちはまだ幼すぎて、
“恋”というものを知らなかったのだ。
小学校を卒業し、
公立の中学に入っても私たちの関係に変化はなかった。
同じクラスにはならなかったけれど、
廊下などですれ違う度に何かしら口喧嘩をした。
友達には「相変わらずだねー」とか、
「仲良いよねー」とか言われ、私は即座に否定するが、
言われれば言われたで嬉しくなって、
なんだかくすぐったくなった。

 私は文芸部で、浩はバスケ部だった。
二人の家は近所だったので小学校の頃から帰りがよく一緒になり、
中学でもそれは変わらなかった。
ただお互いに部活のある水曜と金曜に回数は減ってはしまった。
家までの道のりは何かしら言いあっていたが、
それが楽しみだったりした。
「おまえさー、最近太ったんじゃね?」
「なっ!?」
彼の失礼な一言に、当然私は怒りだす。
「これだから文化系の部活は…。
 おまえもバスケやれば?」
「絶対やらない!」
「はっ…そうだった。
 おまえって運動オンチ…」
笑いを堪える彼に肘鉄を食らわす。
「ぐはっ!おまっ…ちょっとは女の子らしくしろ!」
お腹を抱えて立ち止まる彼。
「どーせ女の子らしくないですよ!いーっだ!」
可愛げのない自分。
前はこんな態度をしていても全然気にならなかったのに、
最近はなぜか自己嫌悪に陥ってしまう。

 そんなある日のことだった。
いつものように二人で帰り、
また言い合いをしていたのだが、
浩にいつもの勢いがなかった。
「どうしたの?なんか調子悪い?」
私が彼の顔を覗き込む。
「何?心配してくれてんの?」
彼がにやりと笑うので、
思わず普段通りの言葉を返してしまった。
「べつに!そんなことないもん!」
私はそっぽを向き、彼は小さく笑う。
「いや、単に腹が減っただけ」
「なぁんだ、それだけ?」
私が軽くあしらうと彼は癇に障ったらしい。
「運動部は練習ハードだし、先輩きっついし、
 もう大変なんだよ。暇な文化部と違って」
浩は最後の一言を強調した。
「なにぃ!?
 うちだってねぇ、ちゃんと活動してんだから!」
「あーはいはい」
浩は両手を頭の後ろで組んで、
私の言うことなんて全く聞いてない様子だった。
「なによもー!
 今日のおやつに残ったポッキーあげようかと思ったけど、
 やーめた!」
私はそう言いながら鞄の中からポッキーを取り出し、
袋を開けた。
「え!?おまえ、いいもん持ってんじゃん!
 それを早く言えっての!」
ポッキーを奪おうとする彼からさっと身をかわした。
「ムカつくこと言ったからあげない!」
私はつーんとして、
ポッキーを自分の口に一本くわえた。
「さっきはほんっとにすみませんでした!
 あきえ様!どうかお許しください」
さっきの態度とはうって変わって、
両手を合わせ、
たかがポッキー一本に懇願する彼に私は折れた。
私だってそこまで鬼じゃない。
「しょうがないなぁ」
そう言って、彼の前にポッキーを一本差し出した。
「え?マジ?もらっていいの?」
「ん」
私はポッキーをくわえたまま答えた。
「あーホント感謝します!」
ポッキーを受け取ろうとした彼は続けていった。
「…でも、こっちのがいい」
私が何か言う間もなく、
浩は私の両肩をしっかりつかんだ。
私のくわえていたポッキーの残りを一気に口に含むと、
次の瞬間、彼の唇が私の唇に触れていた。
あまりに突然のことで、
何が起こったのかわからなかった。
こ…これって…。
私は彼を思いっきり突き飛ばし、
その衝撃で彼は勢いよく尻もちをついた。
「…ってぇ…」
な…なんだ?今のは。
「おまえ…力の加減をちったぁし…」
彼は私を見て、
言いかけた言葉を飲み込んだ。
「え…あき…」
「バカ!最低!!」
呆然とする彼を残したまま、
私は全力疾走で家へと向かった。
そう…あまりにもびっくりした私は思わず、
泣いてしまったのだ。
唇に手の甲をあてた。
口の中にはまだポッキーの味が残ったままだった。
「なんなんだ…アイツはぁ…」
悔し紛れに呟いた。
頭の中真っ白で、ヒューズが飛んだ感じ。
それに加えて、
心臓はものすごい勢いで脈打っていた。
小さな震えが全身に走り、
自分をぎゅうっと抱きしめていないと
落ちつかなかった。

 それから私は浩を避けた。
学校でも会わないようにしたし、
帰りも一緒にならないようにした。
家に電話がかかってきたみたいだけど、
親に居留守をつかってもらうように頼んだ。
自分から避けるような真似をしてるくせに、
とても寂しかった。
でも今までどう接してきたかとか、
そんなの全然わかんなくて、
とにかく浩のことが頭から離れなくて…
何をするのにも自然と彼のことを思い出していた。
考えても考えてもぐちゃぐちゃになるだけだった。

 数日後。
部活がない日だったので、
私はまっすぐに帰り道を歩いていた。
それまで一人で帰ることは少なくなかったのに、
なんだかすごい孤独感に駆られた。
とぼとぼと重い足どりで歩いていると、
後ろから声がした。
「おまえ、何日も俺を避けて…
 いい度胸だな!」
振り返らなくてもわかる。
浩の声だ。
私は聞こえないフリをして、
速足で彼との距離を離した。
「くっそ!逃げんなっつーの!!」
彼はダッシュで私のところまで来て、
肩をつかんで自分の方に向かせた。
私は抵抗した。
「やっ!離して!!
 なんでアンタがここにいんのよ!?
 部活あるハズでしょ!?」
「おまえが避けってから、
 わざわざサボってきたんだよ!」
荒くなった語気が、私の動きを止めた。
「この前は…悪かったよ。
 いきなりあんなことして」
今度は静かな口調で、
肩をつかんだまま真剣に謝ってくる。
「ごめん」
さらに頭まで下げられた。
これじゃあ私は素直に許すしかないじゃないか。
「…びっくり…したんだから。
 私、あんなの初めてだし、なかなか忘れらんなくて、
 どうしていいのかわかんなくて…」
そう言いながら、自然と涙がでてしまった。
「いつもと違うから調子くるうよ…
 ちゃんと責任とってよね」
泣きながら言ったので、うまく言葉にならなかった。
「そうだよな、びっくりしたよな。
 本当にごめんな」
彼は私を抱きしめながら、優しく頭をなでた。
不思議と気持ちが落ち着いた。
私は彼の腕の中でしばらく泣き続けた。

 「俺、あきえが好きだよ」
浩が静かにいった。
「私も…浩が好き」
なんのためらいもなく、
彼の腕の中で自然とその言葉がでた。
ここ数日、
考えていた答えがでた気がした。
こうして私たち二人は恋人同士になった。

 それからというもの、
私たちの関係は一変した。
口喧嘩することもあったけど、
以前よりはひどくなかった。
柔らかな空気が二人を包み、
彼のそばにいるのが心地いいと感じることができた。
今まで知らなかった感情が、
どんどん私の中で生まれた。
まだ中学生だったけれど、
甘いとか言われるかもしれないけど、
私たちはお互いのことを真剣に想っていた。
心が通じ合ってるってこういうことをいうのかな…
なんて、幸せに浸りっぱなしだった。
この状態がいつまでも続けばいいと、
むしろ壊れてしまうなんて疑いもしなかった。
でも私たちの穏やかな日々は、
もろくも簡単に壊れてしまう短いものだった。

 「俺…転校することになった」
また夏の季節が近づき、
私たちの付き合いが一年経とうとしていた頃のことだった。
いつものように二人で学校から帰宅している途中、
浩から言い渡された衝撃的な一言だった。
「え…?」
聞き間違いかと、耳を疑った。
「親の仕事の都合で、
 九州の方に転校することになった」
「九州って…!」
新幹線で行くとしても、
やはり東京とは離れすぎている。
「浩も…浩も行かなきゃならないの!?」
「うん…」
彼は静かに頷いた。
彼の険しい横顔に、
現実を突きつけられた気がした。
「や…やだ」
私の目から涙が溢れだした。
視界がぼやけて、
目の前にいるはずの浩が見えなかった。
「そんなのやだ…浩と離れるなんて…」
こんなこと言っても浩を困らせるだけだ。
そんなのわかっていても、
暴走する感情は制御できなかった。
「俺だって…」
彼が勢いよく手をひき、
私を強く抱きしめた。
「俺だって、おまえと離れんの嫌だよ!
 家族に俺だけこっちに残れるように頼んだ。
 でも、まだ中学生だからの一言で反対された…!」
私を抱きしめる力が強くなった。
「俺に何の相談もなく…
 勝手だよな、親の都合でさ…」
私も彼を強く抱きしめた。
このぬくもりが私のそばから消えてしまうなんて、
そんなの信じたくなかった。

 私たちの意志に反して、
浩の転校の準備は着々と進められた。
二人でいても何を話していいのかわからず、
黙っていることが多くなった。
重い空気が二人にのしかかる。
きっと何かを口にしてしまえば涙がとまらなくなるのは
わかっていたから…。

 一学期が終わりに近づいた浩の最後の登校日。
浩は皆から見送られ、お別れをした。
帰りには花束やらプレゼントで両手がふさがっていた。
彼が向こうに行ってしまうのは明後日だった。
私とこうして一緒に帰るのも、
これが最後だった。
「荷物いっぱいだねー」
「ありがたいけど…ね」
彼は涙を見せなかった。
泣きそうなのを必死で堪えているのがわかっていたので、
私も必死に堪えていた。
そしてとうとう私の家の前に着いてしまった。
そのまま立ちつくし、
お互いに何も言わない時間が続いた。
「…それじゃ」
私は喉の奥から乾いた声をだした。
彼に背を向け、
家に入ろうとすると、
背後から彼に抱きしめられた。
「俺…やっぱり行きたくない」
彼の言葉で、堪えていた涙がこぼれた。
「俺、家出する」
驚いて彼の顔を見る。
真剣な目だった。
「あきえも…一緒にこないか?」

 その日の夜11時30分。
私は必要最低限のものだけを大きな鞄に詰めて、
ひっそりと家を出た。
家の近くの公園に行くと、浩が待っていた。
「なんだか…秘密の密会みたいだね」
と、私が彼に声をかけた。
「…平気だった?」
「うん」
「じゃあ…行こうか」
浩が私の手をとって歩きだす。
「どこまで行くの?」
「…わからない。どこかできるだけ遠くへ」
こんな夜遅くに出歩くのは初めてで、
少々不安になった。
本当にこんなことしていいの…?
そう思いながらも、
今はこうするしかなかった。
さもなければ、私たちは離ればなれになってしまう。
そんなの絶対に嫌だった。
一生会えなくなるワケじゃない。
会おうと思えば月一くらいでだって会える。
大げさなのかもしれない…でも、
私は少しでも長く彼のそばにいたかった。

 駅に着くと、あとは12時5分の最終電車しかなかった。
二人で終点までの切符を買ってホームに出た。
その間、私たちがお互いの手を離すことはなかった。
「不安…?」
浩が私を見ていった。
「…平気だよ」
私も彼を見ていった。
駅にアナウンスが流れ、電車が入ってくる。
ドアが開き、二人同時に乗り込んだ。

 電車に揺られている間も、特に会話は交わさなかった。
椅子に座り、目の前の窓から外を眺めていた。
真っ黒な暗闇の中、
街の明かりがどんどん過ぎていった。
私はそれらを目に映しているだけだった。
何も考えられなかった。

 終点の駅は海が近くにある所だった。
夜の闇の中、波音が静かに聞こえた。
改札口を出て、右も左もわからない街に足を踏み入れた。
しかしそこは街と呼べるものではなかった。
何もなく、たくさんの木々と草花がそこらじゅうに生え、
ミスマッチともいえるコンクリートの道が敷かれていた。
「これから…どうすっかな…」
浩が呟く。
「とりあえず…どっか入れそうな建物を探さない?」
「そうだな」
こうして二人はあてもなくただ歩き続けた。
しばらく続いた沈黙を破ったのは彼だった。
「ごめんな…」
「え?」
隣を歩く彼の声に私は反応した。
「なんか…変なことに巻き込んじゃって」
彼は俯いていた。
「ホントこんなことしてもしょうがないって、
 ガキくさいってわかってるんだけど…」
「うん…」
私は握っていた手をしっかりと握った。
浩がゆっくりとこちらを見る。
「大丈夫…こうして二人でいるんだから」
私の言葉に彼は泣きそうな笑顔で答えた。
「あ…ねぇ」
私は目に飛び込んできたものを指差す。
「あれって、教会かな?」
浩が私の指差す方向に目を向ける。
「んー…暗くてわかんないけど…
 多分そうなんじゃないかな?行ってみる?」
「うん」
私たちは少し歩調を速めて、
その建物に向かった。
近くまで行くと屋根には十字架があり、
やはり教会のようであった。
「入ってみる?」
「うん」
扉が開いていたので、
私たちはおそるおそる中へ足を踏み入れた。
中はステンドグラスのほのかな明るさがあるだけの
暗闇に包まれた礼拝堂だった。
「なんだか…夜だと雰囲気変わるね」
「ああ…」
あたりを見回しながら、
二人で真ん中の通路を歩いた。
ひたひたと足音が微かにする以外、
物音一つしなかった。
二人は前にある十字架に辿り着いた。
高く飾られた十字架を、
私は無言で眺め続けた。
「せっかくだから、お祈りしようか」
浩が静かに言う。
「うん」
二人は両手を組んで祈った。
神様…どうか、
浩と離れさせないでください…。
私はそう何度も祈り続けた。
「…もしもさ」
祈っていると、
彼がぽつりといった。
そしてお互いに向き合うカタチに自然と体が動いた。
「もし?」
私が聞き返す。
「もしも…二人が離ればなれになっても、
 20歳になる年の今日、またこの教会に来よう」
脈打つのが速さを増し、
胸のあたりが苦しくなった。
「それで二人会えたら…ずっと一緒にいよう」
頭のしんがじぃんとする。
「…イヤ?」
彼が不安気な顔で私に尋ねる。
「や…じゃない」
私は彼に抱きついた。
「どんなことがあっても、
 20歳になったらここに来る」
彼が私を抱きしめ返す。
「絶対…迎えに来るから。
 それまで待ってて」
お互いの顔が見えるくらいに体を少し離した。
「その時は、白い服を着ててね」
浩はにっこりと笑った。
私もくすっと笑った。
「待ってる。ここで白い服を着て、
 あなたを待ってる…」
先のことなんてわからない。
でも、今を大切にしたい。
私は今、この人のことがとても好きで、
この人以外は何もいらなくて…
その今の証を残しておきたかった。
神様…
私はこの人とともにいることを誓います。

 腕時計が、真夜中の2時を刻んだ。
礼拝堂の一番前の椅子に、
私たちは寄り添って座っていた。
「…あきえの夢って何?」
浩がぽつりといった。
「私の夢?」
「そう」
突然そんなことを言われて困った。
「将来、なりたいものとか、
 やりたいこととかないの?」
「えー…べつに、特にない…かなぁ?」
「あー、おまえらしい」
彼が笑いながら言うので、
もたれていた頭を彼から離した。
「なによぉ!じゃあ浩にはあるの!?」
「え?俺?」
少しの間。
「ナイ」
彼の言葉に思わず吹き出す。
「なぁんだ。自分だってないんじゃない!」
私は彼の肩を軽く叩いた。
「でも…」
「ん?」
「でも、あきえと一緒にいたいと思ってる」
「……」
視界がじんわりとぼやけだす。
「これは、夢じゃないかな…?」
頬に涙がつたった。
「また泣く…」
「だってぇ…」
彼は呆れたように笑いながら、
私の涙の一つ一つを拭ってくれた。
「あきえのそばにいて…一緒に歳をとっていけたらな」
「うん…」
そんな夢の語り合いをしながら、
私たちは眠ってしまった。

 朝、誰かに揺すられて目が覚めた。
目を開けるとそこには、
シスター姿の中年くらいの女性がいた。
「あなたたち、何をしているのですか?」
シスターはやんわりと私たちに尋ねてきた。
どう答えようかとお互いに顔を見合わせた。
すると、浩が事情を簡単に話した。
家を抜け出したが泊まる所がなかったので、
ここで一晩を過ごした…と。
それを聞くと、
シスターはあたたかな微笑みを見せた。
「では、こちらにいらっしゃい」
私たちはシスターに別館に導かれた。
石造りの建物の長い廊下を歩く。
窓から朝日が差し込んでいた。
どこに連れていかれるのかと不安になった。
もしかして、警察に連絡されてしまうのだろうか?
そしたら間違いなく補導されてしまう。
それとも罰として、
どこかに閉じ込められてしまうのだろうか?
そんなことを色々頭に巡らせていると、
ある一室に着いた。
そこは台所だった。
目の前には大きな窓があり、
壁際にはレンジや流し台、冷蔵庫があった。
まさか、ここで奉仕しろと…?
二人で立ち止まっていると、
「ここにかけなさい」
とシスターが言い、
部屋の真ん中にある年季の入った椅子をひいた。
私たちは訳がわからぬままそこに腰掛けた。
すると、向かい合って座っている二人の目の前に
フランスパンと野菜たっぷりのスープが置かれた。
「え…これ…?」
戸惑っていると、シスターはまたにっこりと微笑んだ。
「お腹減っているでしょう。
 こんな簡単なものしかないけれど…」
最初は遠慮したが、
結局はシスターの好意に甘えることにした。
感謝していただいた。
スープが喉をつたい、
胃に落ちていくのがわかった。
スープとシスターのあたたかさに、
心と涙腺がゆるんだ。
「…家に、帰ろうか」
浩が何かを諦めたように、
何かを決心したようにいった。
「うん…」
私は短く答えた。

 食べ終わってから自分たちの使ったお皿を洗い、
シスターにあつくお礼を言って教会を後にした。
まだ日が昇って間もなかったので、
電車の中の人は少なかった。
お互いの手を握るようにして、
しっかりと手を繋いでいた。
彼のぬくもりが伝わってくる。
明日にはもう、
このぬくもりは私の前からなくなってしまう。
その事実があまりにも切なすぎて、
悲しすぎた。
最後は笑顔でお別れしようって決めたのに、
結局別れ際に泣いてしまった。
浩は私を抱きしめてキスをした。
「必ず、戻ってくるから。
 ちょくちょくこっちにも帰ってくるよ」
「ん…」
こうして浩は去っていった。
私は家族に気づかれないようにひっそりと部屋に戻った。
ドアを静かに閉め、その場にへたりこむ。
涙が、とまらなかった。
私たちの小さな抵抗が、
小さな旅が、終わりを告げた。

 その日は、何事もなかったように学校にいった。
明後日から夏休みになるので、
午前中は授業、午後は大掃除となった。
いつもと同じなのに…
どこにも彼はいなかった。
きっと今頃空港に向かっているだろう。
向こうに着いたら元気な声で連絡をくれるはず。
そうだ、新しい家の住所を教えてもらおう。
そしたら手紙を書こう。
彼もすぐに返事をくれるはず。
向こうでの新しい生活のこと、
いっぱい話してくれる。
そう考えるとささやかな幸せが生まれた。
私は帰宅してからずっと、
彼からの電話を待ち続けた。
しかし、夜になっても彼から何の連絡もなかった。
きっと慌ただしくて疲れてしまったんだ…
私はそう言い聞かせながら眠りについた。

 次の日、一学期最後の日。
明日から夏休みといことで、
教室の中はうかれモード一色だった。
朝の予鈴が鳴り、本鈴が鳴った。
先生がやってきて、
クラス全員で挨拶してしまうとHRが始まった。
連絡事項などを先生が淡々と話した。
皆の頭は夏休みのことでいっぱいで、
先生の言うことはあまり耳に入ってなかった。
しかし、
「えー…最後に、皆に悲しいお知らせがある」
という先生の言葉で一斉に耳が集中した。
「皆知ってる人も知らない人もいるだろうが、
 一昨日転校をした同じ学年の川瀬 浩が
 昨日、亡くなった」
教室が騒然とする。
あまりにも突然で、衝撃的な知らせだった。
手先から力が抜けた。
担任から知らされたことは、彼の死だった。
頭にすんなり入ってこなかった…
彼が死んだ…そんなバカな。
一昨日、私と一緒にいたじゃない。
HR後、私は彼が本当に死んだのかを確認するように、
先生に詳しいことを尋ねた。
「いや、わたしもよくはわからないのだが…
 向こうで交通事故にあったらしい。
 別の車に左から突っ込まれ、
 運転席に座っていた父親と、
 その後ろに座っていたお兄さんは一命を取りとめたらしいが、
 助手席に座っていた母親と、
 その後ろに座っていた川瀬は即死だったらしい…」
即死…。
その言葉が胸にずしんときた。
「近々、こちらで葬儀があるらしい。
 まぁその時は彼のクラス代表がいくだろうが…
 湯崎は川瀬と同じ小学校だったんだっけか?」
「はい…」
「そうか。
 ショックだろうが、元気をだしなさい」
私は頭を下げ、先生は教室を出た。
重い足どりで自分の席につく。
全身の力が抜け、
何にも考えられなかった。
いきなり彼の死を言い渡され、
それをどう理解すればいいというの?
実感がわかなすぎて、涙も出てこなかった。
突っ込んできた車の運転手に憎悪感が沸き起こったが、
それもしばらくすると消えてしまった。
全ての感情が起こっては、
すぐにしぼんでしまう感じだった。
ただ、整理のつかない心を抱えたまま、
私は今にも周りの雑音にかき消されそうだった。

 約一ヵ月後。浩の葬儀が行われた。
クラスと部活の代表、数名の教師たちと
仲の良かった友人数名、
そして私が参列に加わった。
母親遺影の隣に、
笑顔の彼の遺影が飾られていた。
大きな棺があった。
あの中に彼が眠っている。
安らかに…そして永遠に目を覚ますことはない。
お兄さんのご好意で、
私も火葬場に立ちあうことになった。
浩と顔そっくりな兄。
三つ年上で、
浩よりは大人びた感じなのだが、
彼だと見間違いそうになった。

 煙とともに、彼が天に昇っていく。
私はまだ実感できずにいた。
それでも、涙がとめどなく流れた。
今にも浩が私の目の前に姿を現わしてきそうな気がした。
そう期待し続ける自分がいた…。
しかし、彼はもうこの世にいない。
現実が重くのしかかってくる。
この気持ちを現わす言葉がみつからなかった。

 彼から与えてもらったものが多すぎて、
その分失ったものが多すぎた。
私の何かが欠落し、
どこかへ消えようとしていた。
その度に必死に拾い集め、
自分の中に戻そうとした。
その繰り返し…。
ありきたりな言葉だけれども、
私は浩が好きだ。
本当に好きで、
本来なら彼に与え、伝え続けるものだった。
しかし今は伝わらない気持ちとして、
私の中にだけどんどん蓄積されていく。
あなたの面影を追うだけの日々…。
あなたは隣にいないけど、
いつでも私のそばにいるという錯覚の中で
私は毎日を過ごし、何年もの時が過ぎた。
彼とともに私の心も死んでしまった。
浩が私の人生で最大の人なのだ。
もう、私は誰も愛さないし、
彼ほど心動かされる人はいないであろう。
そう思うと、
生きる目的を何度も見失いそうになった。
彼のあとを追おうと考えたこともあった。
でもそうしたら、
彼の死を認めてしまうことになってしまう。
彼はきっと、もう一度私の目の前に現れる。
20歳の約束の日。
私はあの教会に行く。
そこに彼もいるはず…。
「遅かったな」と、
私に笑顔を向けて言ってくれるはず。
そう信じて、
私は彼との約束を支えに生きてきたのだ。

 20歳になる年のあの日と同じ日。
私は約束の場へいった。
少し重くなったドアを開けて礼拝堂の中に入るが、
そこには誰もいなかった。
あの頃と何も変わらない…
時間が戻った気がした。
私は一日中彼を待った。
来ないとどこかで諦めていながら、
ひたすら待ち続けた。
しかし、そこには誰も来なかった。
彼が死んだと、
もう一度思い知らされた。
私は涙を流し続けた。
心はずっと変わらぬまま、
彼を愛し続けていた。



 気がつくと、
私はベットの上で寝てしまっていた。
外を見ると、さっきまで昇っていた太陽は
とっくに沈んでしまっていた。
ゆっくりと体を起こそうとするが、
全身がだるくてすぐには無理だった。
しばらく天井を見上げたままぼーっとしていた。
さっきの広樹との光景が脳裏によぎった。
やっとのことで体を起こし、
部屋を出て下に向かった。
すると、階段を下りた所で母親と鉢合わせした。
「あ、ちょうどよかった。
 今、呼びに行こうとしたところだったのよ」
「なに?」
「あきえにお客さんが来ているのよ。
 リビングにいるわ」
「誰?」
「川瀬くんのお兄さんよ。
 何年ぶりかしらね」
思わぬ訪問者だった。
私がリビングに行くと、
その人はソファーに座ってた。
私の気配に気がついてこちらに振り向く。
「やぁ、久しぶりだね」
そう言ってにっこりと笑みをみせる。
「ずいぶん大きくなったね。
 俺のこと、覚えてる?」
「はい…」
忘れるワケがない。
浩にそっくりなお兄さん。
少し茶色に染まった髪。
ほっそりと背が高く、
落ちついた低い声だった。
浩が成長したら、
彼のようになったのだろうか…?
「いつ、こっちに戻ってきたんですか?」
私はお兄さんの前に座りながら尋ねた。
「ああ…大学をこっちで受験してね。
 親父を残して一人暮らしを始めたんだ。
 今はいちおう社会人ですよ」
「そうなんですか…」
お兄さんはテーブルの上のお茶を飲んで、
一息ついてからいった。
「それでね、
 今日は渡したいものがあって来たんだ」
自分の鞄の中をあさって一枚の封筒を出した。
「これ」
差し出されたそれを私は黙って受け取った。
目を疑った。
「この前親父のとこにいった時に整理してたら、
 たまたま浩の小学校のアルバムの間から出てきたんだ」
封筒の表には“20歳のあきえへ”と書かれていた。
間違いなく浩の字だ。
震える手で封筒を開けると、
一枚の写真が入っていた。
浩と私が写っている…これはいつのだろう?
中学の時、初めて出かけた記念に撮ったものだろうか。
背景は真っ青な空だけが写っていた。
裏をめくると、そこには文が並べられていた。
“20歳のあきえへ
きみと約束した記念に、これを残しておこうと思う。
昨夜は突然あんなことになってしまって悪かった。
でも俺的には嬉しかったよ。
最後に二人でいられたことが。
はたして、俺はこの手紙をきちんと
20歳のきみへ渡すことができるのだろうか?
この先何が起こるかわからないけど、
可能な限り、あきえのそばにいるよ。
きみがいつでも幸せでいられますように。
14歳の浩より”
ぱたぱたと涙がこぼれた。
とまらなかった。
「本当は迷ったんだけどね…
 渡そうかどうか」
お兄さんは少し困ったようにいった。
「いえ、ありがとうございます」
私は泣きながら感謝した。
「…20歳に間に合わなくて、ごめんね」
「あの…」
「何?」
「明日、浩のお墓に連れて行ってもらえませんか?」
私のいった言葉にお兄さんは驚いていた。
「すみません…突然こんな無理を言ってしまって」
「いや、いいよ。気にしないで。
 仕事何時に終わるかわからないから、
 お昼休みの間でいい?」
「はい」
私は明日彼のお墓に行くことにした。
彼の死後、初めてのお参りだった。

 次の日、私は大学をサボって
家から二駅先のお兄さんの仕事場に向かった。
昨日教えてもらった所に行くと、
そこは車の整備工場のような場所だった。
私が小学校の頃からお兄さんが車が好きだったことを
ふと思い出した。
ひっそりと中を覗くと、
何人かの作業着を着た人たちが車をいじっていた。
大きな機械音と油の匂いがした。
「あ、あきえちゃん」
私に気がついてお兄さんは駆け寄り、
「ごめんね、もうちょっと待っててくれる?」
と、帽子のつばをつかみながらいった。
「はい。じゃあここにいますね」
私がそう答えると、
お兄さんはにこっと笑って仕事場に戻った。
私は工場の外で立って待つことにした。
蝉が鳴いている。
太陽が照りつけて暑かったけど、
風が吹いていたので幾分マシだった。
15分程するとお兄さんがやってきた。
作業着ではなく、チェックのシャツを着ていた。
「じゃあ、行こうか」
お兄さんの車に乗せられて浩のお墓に向かった。
「花、買ってきたんだね」
ハンドルを握りながら、
お兄さんが私の抱えていた花束を見ていった。
「はい」
「アイツ、きっと喜ぶよ。
 なにより、あきえちゃんが来てくれたことにね」
私は笑ったが、
多分、うまく笑えていなかったと思う。
それからお寺に着くまで、
特に会話を交わすことはなかった。

 浩のお墓があるお寺は海の近くだった。
私たちが約束した教会からも近い所にあった。
水にバケツを汲んで、
浩のお墓の前にやってきた。
私は何も言わずに立ちつくした。
そんな私を見てお兄さんは、
「あきえちゃんが持ってきてくれた花、生けるね?」
といった。
「あ、いいです。
 私、やりますから」
「いいよ。久々に浩に再会したんだから、
 話しかけてやって?」
お兄さんは持っていた火のついたお線香を私に渡し、
てきぱきと花を生け始めた。
私は彼の行為に甘えた。
浩と向き合う。
こうしてせっかくまた会えたのに…
何を話していいのかわからなかった。
思いついたのは謝罪の言葉だけだった。
ごめんね…来るのが遅くなって。
ここに来るまで七年もかかっちゃったよ。
「さて…お線香あげようか?」
「はい」
二人でお墓にお水を静かにかけながら、
浩と母親にお線香を捧げた。
手を合わせて目を閉じると、
涙がこぼれた。

 お墓参りが終わった後、
お兄さんが送ってくれると言ったが、
一人で帰りたいからと丁重に断った。
「もしかしたらもう会うことないかもしれないけど…
 元気でね」
「はい。
 色々とありがとうございました」
お兄さんは勢いよく車のドアを閉め、
エンジンをかけると私に軽く手を振って車を走らせた。
私も手を振りかえして車を見送った。
そして、私はゆっくりと歩きだした。
あの教会に向かって…。

 ここに来るのは一年ぶりだった。
去年は真っ白い服を身に着けていたけれど、
今日の私は黒い服を着ていた。
死者に祈る時のように。
重い教会のドアを開け、
礼拝堂の真ん中の通路を歩く。
一歩一歩、確実な足どりで。
前まで来てしまうと私は十字架を見上げ、
目を閉じ、そして手を組んで祈った。
心を落ちつけながら、
これまでのことを思い浮かべた。
あなたと一緒にいて楽しかったこと。
あなたとのお別れで味わった悲しみ。
一人残された孤独感。
あなたと過ごした短い時間。
一人で過ごした長い時間。
私は忘れない。
でもね、
これから私が前を見つめて歩いていくためには
心の奥にひっそりとしまい続けなければいけないものもあるの。
私はあなたの分まで生き続けるわ。
だって、私があなたのあとを追ったとしても、
あなたは悲しむだけだもの。
今まであなたの死をわかっていながら受け入れられなかったけど、
現実を見ようとせずに逃げてばかりだったけど…
今日ここで、
私はあなたにお別れを告げるね。
「何か、悲しいことでもあったのですか?」
声をかけられてはっとする。
私はまた、涙を流していたのだ。
涙を拭いながら声のいた方を向く。
「あら…あなた」
そこには一人のシスターが驚いたように立っていた。
一瞬誰だかわからなかったが、
七年前にここで会ったシスターと顔が一致した。
「まさか…あの時の?
 私のこと、覚えているんですか?」
「ええ…覚えていますとも。
 ずいぶん大きくなったのですね」
シスターがあの頃と変わらない笑顔を向ける。
「あの時はありがとうございました」
私は深々と頭を下げた。
「いいえ、どうかお気になさらず。
 今日はお一人なのですか?
 一緒にいた彼は…?」
私がすぐに答えないでいると、
彼女は察したようにいった。
「もしかして…?」
「…はい。
 彼はあのあとすぐに事故で亡くなりました」
「そうですか…」
シスターはとても残念そうな顔をした。
「では、彼のためにともに祈りましょう」
私は静かに頷き、
再び彼のために祈った。
その間、涙がとまることはなかった。

 気が済むまで祈ってから、
シスターにお礼を言って礼拝堂を出た。
「また悲しいとこや何かあったらここにいらっしゃい」
シスターの言葉が私の心を和らげた。
階段を下りながら振り返り、
教会を眺めた。
――…さようなら、浩。
そう心の中で呟いた。
すると、鞄の中で携帯が鳴った。
見ると広樹からの着信だった。
実は昨夜、彼から電話やメールがきていたのだが、
自分のことでいっぱいになり、
すっかり放置してしまっていた。
「…もしもし?」
「あきえ!?」
電話にでると、
広樹が確認するように私の名を呼んだ。
「おまえ今日大学に来てないし、
 まさか昨日のアレかって気になって…
 昨日はごめん!」
心配と安心が入り混じった声が受話器越しに聞こえた。
「ううん、広樹のせいじゃないよ。
 私こそごめんね」
彼のそんな声を聞いて、
私自身が落ちつきをとり戻し始めていた。
やっと現在に帰ってきた気がした。
「今、どこにいるんだよ?」
「んーとね、海の近く」
「海って…」
彼が呆れたようにいった。
「迎えにきて」
私は突然ワガママを言いたくなった。
彼は驚きつつも、
「わかったよ…
 じゃあこれから迎えにいくから、
 駅かどっかで待ってろよ」
と言って慌ただしく電話を切った。
私は耳から携帯を離し、
鞄の中にしまった。
そしてゆっくりと駅に向かって歩きだした。
私の心は決まっていた。

 広々とした空。
路傍に咲く草花。
木々の葉は光をいっぱい浴びている。
時がゆっくりと流れていく。
つかの間だったけれど、手にした幸せ。
霧がはれていく。
あなたに出会って、
失いかけていたものをとり戻せそう。


 あなたを忘れるわけじゃない。
そう言い訳してるだけなのかもしれない。
でも、私はもう一度生きることに賭けてみたい。
死んでしまった私の心が生き返った奇跡のように…。


 愛しい人。
どうか、幸せにいて――…。



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