心鏡 〜キミがそばにいるなら〜
そもそも、こうなることはどこかで分かっていたのかもしれない。
彼女が今、俺の腕の中にいて、
そしてその小さな肩を震わせている。
俺の放つ言葉で涙を流す君のことが、とても…
桜の花が徐々に咲き始め、
春がもうすぐそこに近づいていることを感じることができるようになった頃。
大学生になるまでのちょっと長い春休みを満喫していた俺は、
大学の通学路途中の駅にある本屋でバイトをすることにした。
五階建てという少し大きな本屋で、
学習参考書が主に置かれた三階に俺は配属された。
分からないことばかりで戸惑ったが、
仕事を無理に押し付けてきたりする人はいなかったし、
丁寧に教えてくれる人ばかりだったので働きやすかった。
俺より二週間程早く入った狩屋という女性が、
特に細かく教えてくれた。
世話焼きという彼女の性格もあってか、
自分のわかる範囲のことであれば、
俺の聞いたことに対して必要以上の親切で答えてくれる。
同じ大学一年生になるというのもあって聞きやすかったし、
話しやすかった。
しばらくしてから大学生活が始まり、
新しい友人と環境に充実感を得ながらバイトも順調に続けていた。
その日も、大学が終わってからいつものようにバイトをしていた。
本のメンテナンスをしていたら、レジにいた狩屋さんに声をかけられた。
「柳川くん、悪いんだけどこの本、棚に返してきてくれないかな?」
彼女は左手を真っ直ぐ横向きにたてて、
すまなそうに会釈をしながら右手で本を差し出してきた。
どうやらさっき二冊の参考書を持っていた客が、
一冊は諦めて置いていったようだ。
「いいですよ」
俺は快くその本を受け取って、
レジをやっている狩屋さんの代わりに本を棚に戻しに行った。
どこに何の本があるかまだ微妙に把握していなかったが、
その本の場所はすぐに分かった。
店内の、ちょっと奥まった隅にあったのでなんとなく印象深かったのだ。
俺がそこに行って、
棚の斜めに傾いていた本を二、三冊直してから手にしていた本を静かに収めた。
よし…そう一息つくと、ふと後ろの方が気になった。
ちょっと離れた所にいる、高校三年生くらいの学ランを着た男。
棚の前に立って、なんとなく動きが怪しい。
変に辺りを見回している…が、
俺のことは目に入っていないらしい。
そいつの右手が目の前の本へと伸びていき、
本を見ていたかと思うと、
左肩から下げていた鞄の中にさりげなく入れた。
万引きだ。
監視カメラがある上に、
店員である俺が近くに立っているにも関わらず大した度胸だ。
俺の中の、ちょっとした対抗心が燃えた。
男はそれから二冊くらい鞄の中に本を入れ、
何事もなかったように階段を下りていった。
このまま店を出てしまえば、犯罪成立だ。
目撃者は俺しかいないようだし、
ここは俺が行くしかないだろう。
周りの客に不信がられないよう、小走りで後を追う。
突然姿を消しては後々面倒になりそうだったので、
下に行くことだけ狩屋さんに短く言い残した。
彼女は訳が分からないといった感じだったが、
俺は構わず階段に向かった。
男の姿はもう見えなかったが、
うちの店の出口は一つしかないので向かう方向は分かっていた。
足早に一階に着くと、店から出ようとしている男を発見した。
アイツだ…。
俺は目標を確認すると、ヤツと周りの客に気づかれぬよう、
やや小走りに向かった。
階段を下りた所から出口までは少し遠かったし、
店内の客の波に時たま飲み込まれそうになったりと、
少々時間を食ってしまった。
男が店を出た数十秒後に俺が店を出ると、
そこには男とうちの店員と、制服を着た女の子がいた。
男は尻もちをついたままで、
あたりには鞄の中のものが散らばり、
散乱した本の中の一冊を店員が手にしながら問い詰め、
女の子は呆然と立ちつくしている。
どうやら店を出た瞬間、
男は女の子とぶつかってその衝撃で倒れ、
本が散らばり、
たまたま店の外で清掃をしていた店員に見つかったようだ。
なぜ本が盗まれたものかと分かったというと、
間に挟まっていたスリップが鍵だったのだろう。
二つ折りになった短冊のようなあれだ。
会計の際に必ず抜き取ることになっているはずなのに、
きちんと残っていたらおかしなものだろう。
一冊くらいなら忘れたのかもしれない、
で通せるかもしれないが、
こう何冊もあっては言い逃れできない。
「これはウチの商品なんじゃないかね?
レシートは?」
「知らねーよ…」
怒りを抑えながら問い詰める店員と、
あくまでシラをきる男。
これでは水掛け論だ。
俺が声をかけようとした時、
店員は男と女の子の二人の腕をつかみ、
「ちょっと事務所まできてもらおうか」
と言った。
無関係だと思われるであろうその女の子は、
自分に思わぬ疑いをかけられ、即座に反論した。
「待ってください…!私、違います!!」
しかし、店員はそんな事聞いちゃいない。
男が腕を引っ張り上げられて渋々立ち上がったのと同時に、
俺は声をだした。
「あの…待ってください」
店員は怪訝そうな顔つきで俺を見てきた。
俺は唾をごくりと飲み込んでから言った。
「盗んだのはそこの男の子だけで、女の子は違います。
俺、しっかり見ましたから」
俺の一言で彼女はあっさり釈放され、
男の方だけが事務所に連れて行かれた。
多分、俺はいる必要がなかったのだろうが、
その場の流れで同行するカタチとなった。
男の様子だと初犯のようで、大層反省していた。
まぁそうだろう…もし慣れたヤツなら、
もっとうまくやるはずだ。
結局、きつく注意するというだけで家に連絡をし、
母親が迎えに来ることとなった。
そして俺も「仕事に戻るように」と店長に言われ、
事務所に来てから一時間弱で解放された。
三階の仕事場に戻ると、狩屋さんが声をかけてきた。
「どうかしたの?随分と遅かったわね…まさかサボってたんじゃ?」
初めは深刻に、後は冗談っぽく彼女は言った。
「違いますよ」
俺は軽く笑いながら、簡単に事の成り行きを説明した。
「へぇー…そんなことがあったの。注意しなくちゃね。
でもちゃんと捕まえて、エライエライ」
そう言いながら、彼女が俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「じゃ、メンテナンス続けてきますね」
俺はそう言い残して、レジから離れた。
あと一時間くらいか…などと、
どうでもいい事を考えながら店内をうろついていると、
袖を引っ張られる力を感じた。
何の気なしに右を向くと、そこには女の子がいた。
肩まである黒髪のストレートに、
白に紺の襟のセーラー服。
「あの…さっきはありがとうございました」
そう彼女に言われて、はっとした。
間違いない。
さっき盗みの疑いをかけられた女の子だ。
「さっきはお礼も言わずにすみませんでした。
すごく助かりました」
彼女は深々と頭を下げた。
あまりに礼儀が正しかったので、こちらが身構えてしまった。
「いやいや、そんな大した事してないし。
君の方こそ災難だったね」
俺はぎこちなく言った。
すると彼女は、何か考えたように少し黙ってから笑顔で言った。
「私、市原 亜実っていいます。高校三年生です」
彼女の勢いに押された俺は、思わず言葉を失ってしまった。
そんな俺などお構いなしに、彼女は俺の胸元をまじまじと見てきた。
「柳川…竜希さん…」
ネームプレートを見ていたらしい。
それから口元に笑みを浮かべたかと思うと、一歩下がって、
少し体勢をかがめながら上目遣いで俺を見た。
「また、本を買いに来ますね。竜希さん」
そう言ってしまうと俺が言葉を返す間もなく、
彼女は立ち去ってしまった。
今、自分の身に起こっていることがうまく理解できなくて、
俺はその場に呆然と立ちつくすしかなかった。
それからというもの、
俺がバイトの日は必ず彼女が来るようになった。
どうやら毎日本屋に通い、俺がいつ入っているのかを把握したらしい。
「随分なつかれたわね」とか、
「健気だなぁ…」なんてバイト仲間に言われ、
あきれたような、感心したような、
少し羨望の眼差しで見られるようになった。
そういうことを知ってか知らずか、
何も気にせずに彼女はやってくる。
「りゅーきさんっ」
割り当てられた仕事の時間まで調査したのか分からないが、
ちょうど俺が本のメンテナンスをやっている時にやってくる。
最初はやはり嬉しかったが、だんだんどうしていいのか分からなくなって、
気がついたらつっぱねるような態度をとるようになってしまった。
「また、おまえか…」
「ん…竜希さん、最近冷たい」
「あのな…俺だっていちおうバイト中なわけ。
遊びに来てるおまえの相手をしてるヒマはないの」
そう、俺はバイト中で、
こうやって話していれば仕事をサボっているのも同然だ。
他のバイトの人たちからも、いい加減に目をつけられそうだし…。
「あれ?また柳川に会いに来たの?」
「ハイ、そうなんですけど…竜希さん、冷たくて」
「おいおい…女の子には優しくしてやれよー!
頑張ってな!」
「ありがとございます!!」
…俺の味方はいないらしい。
目をつけられるどころかむしろ、彼女に声援がいっている。
まぁそれはそれで仕事に支障が出てこなそうなので良いのだが…。
ため息をつきながら横目で彼女を見る。
その視線に気づいてこちらを振り向いてきた。
「べつに、遊びに来てるわけじゃないです!
私だっていちおう受験生なわけで、参考書を買いに来たんです」
ちょっとふくれっ面で彼女が言う。
「はい、コレ」
そう言って、紙切れを一枚差し出してきた。
何も考えずにそれを受け取って、そこに書かれているものを見た。
「その参考書を探してるんですけど、どこにありますか?」
こんな調子で、彼女は俺に声をかけ続けてきた。
「ホントに…彼女って健気よねぇ」
バイトの帰り、駅まで狩屋さんと歩いている時のことだった。
「毎回、柳川くんのバイト中に来てさぁ。
今時、なかなかあーゆー子いないわよ?」
彼女は茶化したりするわけでもなく、
真剣な様子で俺に話しかけた。
「そ…ですかね」
俺はぽつりと答え、左手で肩にかけていた鞄をしょい直した。
「私が言うまでもないと思うけど…
彼女って本当に柳川くんが好きなのね」
一瞬、歩いていた足が止まってしまった。
「…は?」
返す言葉がなかった。
俺の聞き間違いかと、耳を疑うしかなかった。
少し前を行った狩屋さんが振り返って俺に言う。
「は?じゃないわよ。やだ、まさか気づいてなかったの?」
彼女は信じられない…といった顔つきで俺を見る。
「いや、まさかとは思ってたけど…単なる勘違いかな?って…」
なぜだか分からないが、俺は彼女に必死に弁解していた。
自分が思ったより動揺していたのに気づいたのは、
もうしばらくあとのことになる。
「てか、ちょっと助けただけなのに…それだけで?」
「そんなのただのきっかけにしか過ぎないじゃない?
あの子、柳川くんのこと気になってるハズよ。
じゃなきゃあんなに毎回来るわけないって」
確かに、その通りだと思う。
誰かに好かれたり、想われることは嫌じゃない…けど、
時と場合による。
「それとも何?彼女の気持ちは迷惑…とか?」
彼女の的を得た質問に、苦笑いするしかなかった。
「俺…好きな人、いますから」
その好きな人とは、五月の終わりに付き合うこととなった。
二度と人を好きにならない…と決めた俺を好きになってくれた彼女。
ちょっと長めのショートの明るい茶髪で、背は俺より少し低いくらい。
クラスが同じで、いつの間にからかよく話すようになった。
毎日メールしたり、たまに出かけたり、仲の良い方だったと思う。
一緒にいると楽しいし、いつからか“好き”という気持ちを自覚するようになった。
でも、去年のことが俺の胸をつく度に、何も言えなかった。
そうこうしてるうちに、彼女から告白された。
「私、竜希が好きだよ」
たまたま大学の帰りが一緒になって、
夕飯を食べて、駅までの道を歩いている時のことだった。
突然の一言に、冗談かと思った。
「え…」
固まってる俺に、彼女は真っ直ぐに、
真実だけを見る目をして言う。
「ウソじゃないよ?竜希は…?」
目が逸らせない。
過去のことがあっても、今の自分の気持ちに偽れなかった。
「…俺も、なつみが好きだよ」
こうして彼女ができたわけなのだけれども、
そんな事情を知らない彼女はバイト先にやって来た。
「こんにちは、竜希さん!」
「……」
「あ、『また、おまえか』って思いましたね?」
彼女はけらけら笑いながら俺のそばについてくる。
言うべきか、言わないべきか…。
でも、ただの勘違いで自惚れてるとは思われたくなかった。
自分が恥ずかしい思いをするだけだ。
そう考えると、何もできなかった。
ずるいやつ。
その一言が、俺を責める。
もし、もしも彼女が何か言ってきた時はきちんと言おう。
自分の中だけの都合の良い解決策と、
ちょっとした罪悪感をうまく相殺した。
「だいたいおまえ、受験生だろ?
こんなところで油売ってていいワケ?」
俺は本を平台に並べながら、制服に身を包んだ彼女に言った。
「大丈夫ですよ!これから塾に行ってしっかり勉強してきますから!
それに、たまには息抜きだって必要なんです」
彼女はにっこりと言う。
「息抜き…ねぇ…。俺が高三の時はこんなんじゃなかったな」
「じゃあ、竜希さんの高三の時って、どんなんだったんですか?」
しまった…と、俺は言ってしまったことを後悔した。
高三の夏――…
思い出したくない、俺の過去。
砕けた思い出は、すぐに修復される。
体の力が、すぅっと抜けた。
時が…止まった。
「…竜希さん?」
彼女に名前を呼ばれて、はっとする。
「どうしたんですか?」
ぎこちなく、彼女の方を見る。
「なんでもない…」
そして顔をそらす。
言葉がつまってうまくでてこない。
「…俺の…」
つばを飲み込んだ。
「俺の高三の時のことなんか、いいじゃないか」
笑って流すつもりだったが、不自然な笑いしかできなかった。
彼女は何か言いたげに、
でも躊躇するような感じで何も言わなかった。
「ほら、もう塾に行ってこいよ」
「…ハイ」
少しうつむいたまま、彼女は階段を下りていった。
俺の高校三年生の受験期は…最悪だった。
ちょうど今くらいの時期だったと思う。
梅雨が徐々に明け、夏の匂いが微かにし始める頃。
俺は順調にいっていたはずのペースを乱される出来事に直面する。
成積は少しずつ上がっていた。
自分の希望する大学の望みも繋げそうだった。
高校二年の時から付き合っていた彼女ともうまくいっていた。
お互いに励ましあって、支えあってる感じで…なのに、
彼女は俺のそばから離れた。
「ごめん…ごめんね」
彼女はただ泣いて謝るだけだった。
俺はあの時、どうすればよかった…?
狂ったように怒鳴り散らせば、罵れば、
泣きわめけば…そうすればよかった…?
俺の特に仲の良かった友達を好きになって、
俺に別れを告げた彼女に対して…俺は、
何もできなかった。
俺が幸せにすると強く誓った彼女に、
深い傷を負わされる以外、何もできなかった。
何も考えられなかった。
何も感じなかった。
心を許せた友達。
心から愛した彼女。
その二人から最高の裏切りを受けた。
友達と恋人を失い、
さらに自分まで失いそうになった。
俺って、なに?
全ての人間に対して疑いを持った。
全てのものを信じることができなくなった…自分自身にさえ。
心が崩壊し、砕け散った。
冷たく、凍りついた俺の中の俺。
なにもかも…どうでもよくなった。
そして、一気に成積は落ちた。
そんなの、気にもしなかった。
手も、足も、頭も、心も、何も動かなかった。
途方に暮れた俺は、しばらくして悔しくなった。
アイツらのために悩んだり、傷ついたり、
涙を流したりするのがバカバカしくなった。
見返してやる。
もう、その言葉しか浮かんでこなかった。
俺は他のことに目もくれず、必死に勉強した。
すると面白いくらいにみるみる成積は上がり、
それなりにレベルの高い大学に受かった。
その途端、虚しさが襲った。
気が抜けて、気がついたら、
自分には何も残っていないように思えた。
そんな…そんな自分の心を殺した高校三年生――…。
あれ以来、もう人を好きにならない…そう思っていた。
しかし今、俺はなつみと付き合っている。
彼女のことを好きになったことは正直な気持ちだし、
日々が過ぎていく中で傷が徐々に消えていったのも確かだ。
人間は不思議なもので、
たとえ死んでしまいたいという絶望を味わっても、
自分が幸せになる道を探し、求め続け、
生きていくことに適応していく能力を備え持っているのだ。
太陽はとっくに沈み、あたりが闇を包む。
昼間より風が冷たくなって、幾分涼しくなった。
なつみと俺はその日、あてもなくぶらぶらして、
夕飯を食べてから夜景を眺められる場所に座っていた。
人通りが少ない、ビル近くの木が立ち並ぶ外のベンチ。
二人は手を繋ぎ、肩にもたれあっている。
自分にまたこんな幸せがくるなんて…そう思いながら、
彼女を愛しく思った。
「もうすぐ試験だね…」
彼女が、少しかすれた声で呟いた。
「そうだね…なんか憂鬱になるな…」
それは色んな憂鬱を意味する。
試験期間は今までみたいに、
なつみに会いたいと思う時に簡単に会えなくなる。
付き合って間もない俺たちにとっては耐え難いことだった。
「でも、きっとすぐに夏休みになるよ」
なつみが、俺の手を握る力を少し強めた。
「そしたら、いっぱい遊ぼうな」
「うん…」
お互いに同じ気持ちであることを確かめるかのようにキスを交わした。
そしてこれが、
恋人としてのなつみと会った最後だった。
試験が終わり、夏休みに入ってすぐのことだった。
他の人の代わりでバイトに入ったので、
いつもより早く終わった日のことだった。
なつみと夕飯を食べようかと携帯に電話をしたが、
彼女はでなかった。
いつもだったら忙しいのだろうと諦めるのだが、
なんだか胸騒ぎがして諦めきれなかった。
もう一度、なつみの携帯に電話する。
しかし呼び出し中の音が響くだけで、
彼女の明るい声は聞こえてこなかった。
頭では考えられず、気持ちだけが滅入る。
いてもたってもいられなくなって、
気がついたら電車に乗っていた。
バイト先の本屋がある駅と二つ離れた駅に、彼女の家がある。
なつみは実家を出て、一人暮らしをしていた。
なので付き合ってからご飯を食べに行ったりと、
何度か家に行ったことがあった。
駅を出て、少し慣れた道のりをやや急ぎ足で歩く。
胸を締めつけるような緊張だけが、俺を支配していた。
なつみの家までは15分程で着いたが、
一時間くらい歩いた疲労が襲っていた。
ちょっと綺麗めのマンションの五階まで上がる。
端から三番目の部屋の前に立ち、チャイムを鳴らす。
一度、二度…しかし、応答はなかった。
部屋の明かりもついていないので、
居留守をつかっている可能性は少ないだろう。
どうやら家にもいないらしい。
もう太陽は傾きかけて、夜が近づいている。
友達と出かけているとも考えられたのに、
不安から悪い方へと考えがいった。
頭の中で色々な考えや思いをめぐらせながら、
ただなつみに会いたい一心で、
ドアの前にしゃがみ続けた。
実はこの部屋の合鍵を持っていたりもした。
しかし、使う気になれなかった。
どうしてもこうして彼女を待ち続けていたかった。
エレベーターが五階に着く度に目をやったが、
出てくるのは皆、知らない人ばかりであった。
どうでもいいことだったが、
その人たちには不信者を見るような目で見られた。
気がつくと夜はとっくに更けていて、
時計の針は22時30分を指していた。
それでも、彼女は帰ってこなかった。
もう少し、もう少し待っていようと思いながら、
もういい加減諦めて帰るべきなのだろうか…
という気持ちの方が強くなっていた。
23時近くになった時、俺は鞄から紙とペンを出し、
『帰ってきたら 連絡ください 竜希』
と、書き記してから新聞受けにはさんだ。
後ろ髪をひかれながら、俺はその場を後にした。
その晩、
ベットに横になりながらも眠ることができなかった。
なつみからの連絡を今か今かと待ちながら、
常に携帯を気にしていた。
もしかしたら実家に何かあったのかもしれない…いや、
それならそうと連絡をくれるハズだ。
でも慌ただしくて連絡できないのかもしれない…。
良いほうに考えては悪い考えで打ち消す。
そんな繰り返しを続け、
とうとう朝日が昇ってしまった。
昼近くに、再びなつみの携帯を鳴らした。
しかし、結果は昨日と変わらなかった。
しつこいと思いながらも電車に乗り、
なつみの家にまた訪れてしまった。
もう、何も感じなかった。
心配と、不安と、緊張はピークに達し、
全ての機能は停止していた。
なつみの部屋の前に立つ。
昨日と何も変わっていなかった。
部屋の電気はついていないし、
人の気配もない。
ここになつみが帰ってきた様子もなかった。
冷たい空気だけが、俺を迎えてくれた。
新聞受けにふと目をやる。
そこには、俺が昨夜入れておいた紙切れが残っていた。
つまり彼女はどこかに泊まって、ここに帰ってこなかったのだ。
力の入らない手でそれを抜き取る。
全身の力が抜けた。
心が、砕けた。
目の前が真っ暗になり、希望の光なんか見えやしなかった。
脳裏をかすめた言葉。
もう彼女は、俺のもとに戻ってこない。
それだけだった。
俺は家に帰り、部屋に入るなりベットに倒れこんだ。
もちろん、彼女の部屋からベットに横になるまでの動作は、
考えて行ったものではない。
無意識のものだ。
胸のあたりがものすごく重くて、だるくて、
何もする気が起きなかった。
彼女のことだって考えたくなかった。
今のことも、これからのことも、どうでもよかった。
とりあえず、眠りたかった。
このまま誰にも起こされずに目覚めたくないと、
心から思った。
しかし、俺は携帯の着信音で意識を取り戻すこととなる。
重い体をベットから起こし、
そのへんに放りだしてあった携帯電話を手にする。
なつみからの電話だった。
「もしもし?」
いつもと変わらない声がむこうから聞こえた。
「…もしもし?なに、どうしたの?」
俺は努めて、いつもと変わらない声で答えた。
「そっちこそどうしたの?何度もかけてきてくれたみたいだったけど…
でれなくてごめんね」
「…今、家?」
「そうだけど…?」
俺の問いに、なつみは不思議そうに答えた。
「やっと、帰ったんだ…」
嫌味にも似た俺の一言に、なつみは黙ってしまった。
沈黙になり、耳もとには電波のような雑音だけが聞こえた。
「昨夜…ウチに来たの?」
彼女はおそるおそる聞いてきた。
「あぁ…帰りを待ってた。
今日の昼間も行ったけど、誰もいなかった」
そして、一晩中そのままになっていた紙きれのことも話した。
「そう…だったの…」
彼女の声は、意外と落ちついていた。
俺の声も、心もまた同じであった。
「ごめんなさい…私、もう竜希と付き合えない」
予想していた言葉をすんなりと言われた。
「…なぜ?」
彼女の答えはまわりくどく、余計な部分が少なくなかった。
いちおう俺を傷つけないようにと、配慮してくれたのであろう。
要するに、彼女の言い分はこうであった。
昨日から今日にかけて会っていたのは高校の時に付き合っていた元カレで、
そいつとは受験などの精神的余裕の無さから別れたらしい。
俺と付き合ってしばらくしてから向こうから連絡があり、
最初はメールだけだったが、
夏休みが近づく頃には時たま会っていたらしい。
彼女はやはり、彼のことが忘れられないという。
昨夜彼がやり直さないか?と言ったらしく、
そこで彼女の気持ちは戻ってしまった。
話の最後に、彼女はこんな気休めを言った。
「私ね、竜希のこと本当に好きだったよ。これだけは信じて」
関係なかった。
そんな言葉いらなかった。
「でも、それ以上にあの人が私の心を動かすの…」
もう責める気も、あとを追う気もなかった。
言ったところで彼女は俺の言葉なんか本当に聞き入れないだろうし、
気にもとめてくれないだろう。
「…別れよう」
それしか、言葉がでてこなかった。
風はまったく吹いておらず、日差しが余計に暑さを感じさせる。
何もしていなくても、
外にいるだけでじっとりと汗が滲みでてくる。
夏休み真っ只中だったので、べつにやらなきゃいけないこともない。
しいていえば、バイトをすることだけだった。
今日もそのつもりで本屋のある駅で降りたが、
そこでふとしたことに気づく。
今日は、バイトの日じゃなかった。
もう曜日や日にちの感覚は、俺にはないらしい。
一気に気の抜けた俺は途方に暮れ、
とりあえず駅のベンチに座ってみたのだけれど…
こんな暑い外でぼうっとしている俺は、本当に愚かだと思う。
いっそこのまま干からびてしまおうか…なんて、
少しの間頭の中で考えてみた。
暑さに無駄に耐えている俺を第三者的な俺が感じながら、
去年のことを思い出していた。
一年経った今でも、心の痛みは鮮明に思い出される。
あの痛みや絶望に耐えられなくなった俺は、
自分のいるべき世界を変えた。
ただ勉強のために。
ただ受験のために。
ただ大学に入るために…
それだけを念頭に、他のことには目もくれず必死になった。
高校三年生の夏は、ずっとそんな感じで過ぎていった。
さて、今年の夏は…?
これといって打ち込めるものなんかないし、
今の放心状態になった俺を強く惹きつけるものなんて何もない。
もう、なにもかもが終わった…。
ずっと、ずっとこのままで、
この先も、自分の心を痛めることしかないのだろうか?
そんなことを考えていたら、絶望的になった。
心が重く、沈んでいった。
「竜希さん…?」
誰かの声が、俺を現実にひき戻す。
「…こんな所でなにしてるんですか?
具合、悪いんですか?」
ゆっくりと目を開け、視界を広げる。
目の前には、市原 亜実がいた。
心配そうに、俺の顔を覗き込んでいた。
「…もしかしなくても、寝てましたよね?」
彼女の問いによって、初めて気がつく。
駅のベンチでぐったりしながら、
いつの間にか眠ってしまったようだ。
ここのところ、よく眠れない日々が続いていた。
睡魔に襲われてベットに入り、目をつぶるのだが、
浅い眠りにしかつけなかった。
起きている時も、眠っている時も、
同じ感覚でしかなかった。
自分の意識が起きているのか眠っているのか、
それすらも分からない状態であった。
「竜希さん…!」
彼女に再び呼ばれ、意識が少しだけ戻る。
「…おまえこそ、ここで何してんの?」
感情のない言葉を発する。
「私はこれから塾に行くところなんですけど、
竜希さんはこれからバイトですか?」
「いや…」
彼女の問いに短い答えしかできなかった。
そこで、ついに彼女も黙ってしまった。
電車がホームに入っては出て、
その度に人の往来が多くなる。
ホームに響くアナウンスや人々の声で周りはざわついていたが、
彼女と俺の間だけは静かだった。
俺は何も言いたくなかったし、話したくなかった。
だからといって彼女が隣にいることはわずらわしくなかったし、
邪魔だということもなかった。
いてもいなくてもいいというのもあったが、
なぜだか今はいて欲しい…という気持ちがだんだん強くなっていった。
俺は、寂しかったのかもしれない。
誰かに、話を聞いて欲しかっただけなのかもしれない。
「…何か、あったんですか?」
普通の人なら聞くであろう質問を、
彼女はそのまま俺に問いかけてきた。
俺は、何も答えない。
聞いて欲しいという願望はある…しかし、
彼女に話したところでどうなる?
だいたい俺が話したとしても、
彼女はきちんと聞いてくれないかもしれない。
軽く流されるかもしれない。
明るく笑いながら、
上辺だけの励ましの言葉を与えるだけかもしれない。
なんだっていい…。
今は、何かを語れる状態ではなかった。
たとえ君が、俺を救ってくれるとしても――…
「明後日…バイトありますか?」
その時、俺はようやく顔をあげた。
「いや、ないけど…?」
俺がそう答えると彼女は少し迷ったような顔を見せながらも、
とびきりの笑顔をして言った。
「じゃあ明後日、一緒に水族館に行きましょう!」
思いがけない一言に当惑する。
「…は?おまえ、塾は?
仮にも受験生が遊んでる場合じゃないだろ!?」
「いーんです!ちょうど塾がお休みの日ですし。
それにたまには息抜きも必要ですって!」
「だからって…」
「明後日の11時、このベンチに座って待ってますから」
彼女は俺の言い分も聞かず、
やや強引に日時を指定してきた。
「じゃ、もう塾に行く時間なんで」
と、言い残すと、さっさとベンチから離れていってしまった。
目だけで後を追いかける。
あっという間に彼女はホームの階段を駆け下りて、
姿が見えなくなってしまった。
電車が、ホームに入ってきた。
俺は静かに立ち上がり、それに乗り込んだ。
なつみの住んでいるマンションを訪れた。
入口を入ったすぐの所に、住人のためのポストが並べられている。
なつみのポストの前に立つ。
俺はズボンのポケットから鍵を出す。
なつみの部屋の合鍵だ。
彼女にもらったものだがもう俺には必要ないし、
彼女のもとへ返すべきなのだ。
鍵をポストの中に入れた。
ガシャン…と、何かが割れたような音がした。
そして俺は、
もう二度と来ることのないだろうこの場を後にした。
雲一つない晴天だった。
風が微かに吹き、心地よい暑さだった。
人ごみの中ベンチに座り、ひたすら待ち続けている彼女を見つける。
「待たせてごめんね」
俺がそう一言かけると不安そうな横顔をしていた彼女はこちらに反応し、
目を丸くしながら俺の目を見た。
周りの人々は変わらずに往来を続けていた。
11時30分のことだった。
「うわー、すっごくかわいい!」
われわれは三十分程電車に乗って水族館にやってきて、
分厚いガラスの水槽の中にいる色とりどりの魚を見ていた。
俺の隣にいる彼女は一つ一つの水槽にべったりとへばりついて、
これでもかというくらい見入っている。
そんな彼女には悪いが、
俺はそこまで興味をもてなかった。
確かに綺麗だとは思うんだけど…。
「竜希さん!見てくださいよ、これ!!」
彼女のはしゃぎっぷりに気をとられて落ちついて見れない…
といったところかもしれない。
彼女に袖を引っ張られながら「やれやれ…」という感じで後についていく。
水族館に訪れている人たちのほとんどは家族連れであった。
友達同士、恋人同士がたまにちらほらいた。
そこで、ふと考える。
彼女と俺はなんなんだろう?…と。
はた目からすれば恋人同士に見えるかもしれない。
しかし実際は違うし、友達というわけでもない。
なんて不思議な関係なんだろう。
そもそも、彼女はどうして俺とココに来たのだろう…。
そんな疑問を抱きつつ、彼女に問うことはできなかった。
その答えが今の俺にとって困ってしまうものであったら、
受けきれないものであったら…考えすぎかもしれないけど、
もしそうであったら聞いたことをきっと後悔してしまうと思うから。
そしてまた、彼女のことも無意味に傷つけてしまうと思うから。
俺はもう誰にも傷つけられたくないし、
同じような傷を誰にも負わせたくないのだ。
時計の針が13時付近を指す頃。
われわれは隣の館に移動しようとしていた。
ここの水族館は広い敷地の中にいくつかの建物があり、
お土産やご飯が食べられる建物と、
メインとなる水族館の三つの建物があった。
三つのうち二つの建物は水槽で飼育されている魚を見ることができ、
あとの一つはショーをやるスペースが設けられていた。
二人がいた建物と別の建物にいる魚を見に行こうとした時、
彼女が声をかけてきた。
「あの…お腹すきませんか?」
歩くのを止め、彼女を見る。
「朝、食べてきただけなんです…もう1時だし、
お昼食べませんか?」
言われてみれば、俺も朝食以来何も口にいていなかった。
そういえばお腹すいたな…と、のんきに思ってみる。
「じゃあ、なんか食べるか」
こうして二人は近くにあったファーストフードで朝食をとることにした。
店内に入ってまずメニューを見るという客の行動と同様、
彼女もどれにしようかとメニューを眺めていた。
だがそれはいちおう見たにすぎないといったように、
一瞬で終わってしまった。
もう何を食べるかは決まっていたらしい。
「竜希さんは何食べるか決めましたか?」
「あ、うん。いちおう…」
こういう所に来ると、
食べるものはほぼ決まってしまっている。
他のものを食べようかとメニューを一通り見るが、
やはりいつも食べているものに落ちついてしまう。
二人は隣同士のレジにそれぞれ並び、別々に注文した。
本当は一緒に頼んでおごろうかと思ったが、
そんな必要もないかと思い、やめておいた。
ほぼ同時に頼んだものが用意され、
トレイを持って席を探した。
店内はやや人が多かったが、二人が座れるくらいの席はあいていた。
窓際の隅の方に座った。
二人が向かい側に座ると、彼女が「あっ」と小さく言った。
「どうしたの?」と、俺は首をかしげる。
彼女はにっこりと笑う。
「同じ…ですね」
最初は何が同じなのか分からなかったが、
彼女がトレイの上にあるものを指差したので、
何のことを言っているのかすぐに分かった。
「竜希さんもチーズバーガー、好きなんですか?」
そう、彼女と俺が頼んだものが同じだったのだ。
「私、いつも他の食べようかなぁ?って思うんですけど、
ついついこれにしちゃうんですよねぇ」
彼女はそう言いながら、チーズバーガーを包んでいる紙を剥がし始めた。
「いただきます」と、彼女は軽く呟いてからそれを一口食べた。
いつものだ…といった感じの顔をする。
飲みものを一口飲んでから、俺の顔を思い出したかのように見る。
「あれ…?食べないんですか?」
彼女はきょとんとした顔で俺を見た。
なんだかおかしくて、微笑ましくて…
こんな些細なことで胸がいっぱいになった。
「なんで笑うんですか?」
「いや、ごめん。なんでもない…」
俺はそう言いながらも口もとを手で押さえ、
小さな笑いを続けた。
なんと言えばいいのだろう…うまく言えないけど、
こういう感じは久々であった。
安心するというか、優しい気持ちになれるというか。
彼女のやわらかい雰囲気のせいで、
俺の心もやわらいでいくようだった。
「もー、本当にどうしたんですか?」
なんて、彼女も困りながらも楽しそうに笑っていた。
少なくとも、俺の目にはそう映った。
そこから空気が和み、二人は色々な話をした。
学校のこと、家族のこと、日常にあった出来事など…
そんな小さなことばかりだったけれど、
二人の間には知らないことだらけだった。
考えてみれば、
彼女は俺のバイト先に来て少し言葉を交わすだけで、
それ以上も、それ以下の会話はなかった。
チーズバーガーとポテトと飲みものがなくなるまでのほんのわずかな時間で、
彼女のことを少し知れたような気がした。
そのせいで気の緩みができたのか、
俺は恐くて聞けなかったことを彼女に尋ねた。
「ねぇ…」
「はい?」
「なぜ今日、俺を誘ったの…?」
やっぱり俺は、ずっとこれが気になっていた。
彼女は受験真っ只中で一分一秒も無駄にできない中、
こうして水族館に来て、
彼女の家族や友達や恋人ではなく、
そのどれにも属さないこの俺と一緒にいる。
なぜ、俺なんだろう…。
彼女の顔はそれまでは明るかったが、
その表情の明るさのトーンが少し落ちた。
そんな反応を見て、俺は焦ってしまった。
聞いてはいけなかったことかと。
「ごめん。変なこと聞いて…」
と、俺はすぐに謝った。
彼女はゆっくりと左右に首を振った。
良い空気が流れていたのに、
俺の一言でその空気ががらりと変わってしまった。
沈黙が、冬の隙間風のように吹いていた。
彼女はしばらく何も言わなかった。
黙って少しうつむいていた。
何か言葉をかけようとしたが、
つまって何もでてこなかった。
それでも何か言わなければいけない気持ちに後押しされ、
声をかけようとした…が、彼女の方が先に口を開けた。
「…すみません。あの、迷惑でした?」
彼女はおそるおそる、俺を見て言った。
「え…?」
「突然誘って、無理に付き合わせてしまって…」
「いや、そんなことないけど…」
なぜだか、頭のしんがじんじんしていた。
耳の奥で、鼓動が大きく脈打つのが聞こえた。
乾いた口の中の唾をごくりと飲み込んだ。
「今日誘ったのは…」
彼女の一言一言に、これ以上ないくらい耳を傾ける。
「実は…」
呼吸するのを忘れるくらい、
彼女のことだけを見つめる。
「これが、見たかったんです…」
彼女は顔を下にむけて腕を真っ直ぐに伸ばし、
一枚の紙を俺の目の前に広げた。
何かと思ってじっくりそれを見ると、
水族館のパンフレットだった。
「ここに載ってるペンギンのショー…
しかも席が良ければ実際に触れちゃったりするかもしれないんです」
俺はあっけにとられたというか、拍子抜けしてしまった。
「ごめんなさい!本当、私の趣味に付き合わせてしまって…!」
彼女はパンフレットをしまい、
身をのり出すくらいの勢いで俺に訴え始めた。
「私、ものすごくペンギンが好きで一度触ってみたかったんですけど、
なかなかそういう機会ってないじゃないですか!?
だからどうしても来たかったんですけど、
今受験期だから友達は誘いにくくて…」
顔を少し赤らめながらも必死に訴えかける彼女の姿が、
とても可愛らしかった。
「竜希さん…?」
とても可愛らしかったから、笑いがとまらなかった。
「あんまり、笑わないでくださいよ…
すごく恥ずかしかったから本当は言いたくなかったんですよ?」
しゅんとした彼女を見てさらに笑いそうになったが、
そこは堪えて彼女に言った。
「ごめんごめん。微笑ましかったから、つい…」
「あの…嫌でした?」
「え?」
「ペンギンショー…」
彼女が不安そうに問う。
その不安を打ち消すような笑顔を彼女に向けた。
「ううん、俺もなんか見たくなってきたし…
まぁ受験生のきみたちよりは暇人だから付き合ってあげるよ」
「ごめんなさい!そういうつもりで言ったんじゃ…」
「わかってる」
俺は彼女の言ったことを優しく否定した。
そのペンギンショーは15時からだった。
半円のステージの周りに座席が設置されていた。
彼女と俺は真ん中のやや前よりに座った。
彼女はわくわくしっぱなしで、落ち着きがなかった。
俺はそれをなだめるというか、あやす感じだった。
いよいよショーが始まると軽快な音楽が流れ、
スポットライトが後ろの方に当てられた。
振り向くと、座席わきにある通路の二列にペンギン一匹ずつと、
その横に飼育員のおにいさんが一人ずつ立っていた。
そして前のステージに向かって一段一段、階段を下り始めた。
そうやってペンギンが横を通る間、触ってもいいということらしかった。
運が良いことに、
ペンギンが通る通路は二人の座っているそばの通路だった。
しかも彼女が通路側に座っていたので、
手を伸ばせば簡単に届くという絶妙な位置にいた。
なので彼女はさらに落ち着きのない様子を見せた。
ペンギンがやってくると彼女は手を伸ばして頭に触れたが、
ペンギンはステージに向かうことに必死になって歩いていたので、
一瞬だけのこととなってしまった。
「どうだった?」
と、とりあえず感想を聞いてみた。
彼女はペンギンを触った右手をじっと見て、
それから俺を見て一言言った。
「湿ってた」
完結的な感想だった。
「なんというか…濡れてるなぁっていうのが分かっただけで、
一瞬だったからよく分からなかったです…」
ちょっと状況が把握できてないような彼女を見て、
思わず笑みがこぼれた。
「あ…また、笑いましたね?」
「え…?あぁ、ごめんごめん」
そんなやりとりをしながら二人はショーを見た。
ショーはイルカやオットセイなども出てきて、
ボールをキャッチしたり、楽器を演奏するなどの芸をしていた。
ペンギンも同じように芸をしたり、
また観客席の通路を通ったりしていたが、
われわれの近くを通ることはなかった。
しかし、彼女は十分に満足したようだった。
ショーが終わって会場から出る時、
彼女は満面の笑みを浮かべていたからだ。
「楽しかったですねー!」
彼女に笑顔を向けられて、
俺もつられて笑顔になった。
お土産屋を見て、彼女はクッキーか何かのお菓子を買い、
俺は何も買わなかった。
17時を過ぎていたので、
もうそろそろ帰ろうかということになった。
水族館から駅までの短い道のりの間、
彼女は突然こんなことを言った。
「よかったです…竜希さんが元気になって」
隣を歩く彼女を見た。
彼女は俺に横顔を見せたまま、少しうつむいていた。
「ペンギンのショーを見たかったのは本当ですけど、
竜希さんに元気になってほしかったというのもあったんです。
一昨日、死にそうだったから…」
確かに、一昨日はなつみのことでかなりのダメージを受けていた。
心の傷は幾分癒えたけど、痛みは変わらない。
行き場のない想いを抱えて、心は死んでいた。
「だから、笑っていてほしかったんです」
彼女は俺を見て言った。
「これが、竜希さんを誘ったもう一つの理由です」
彼女は優しい笑顔を俺に向けてから、
「本当は来てくれるか不安だったんです。
だから来てくれて嬉しかったです」
と、小さく呟いた。
それから彼女はそれ以上この話には触れず、
今日見た魚やショーのことなどを話し続けた。
二人が別れるまで、ずっと話し続けた…。
家に帰って、軽く夕飯を食べてから部屋にこもった。
ベットに倒れ込むようにして横になった。
そして今日一日のことを思い出したら、
妙に悲しくなってしまった。
一人でいることに寂しいと感じ、
なんともいえない孤独が俺を襲った。
全身の力が抜け、何も考えられなかった。
何も考えないで、このまま仰向けになって目を閉じていたかった。
脳裏に浮かぶこれまでのことを、
朝つけっぱなしのまま意識してみないニュースを目に映すかのように見ていた。
俺はなつみと別れた。
心の傷がまた増えた。
しかし、今回は完全な絶望を味わうことはなかった。
もう俺は何かに対して諦めたような、
冷めた心しかもっていないのかもしれない。
それか、彼女のおかげなのかもしれない。
今日一日彼女と過ごせたこと…正直、
すごく楽しかった。
心があたたまり、
氷が溶けたように笑えたのも彼女のおかげだ。
一人でいればロクなこと考えないし、
同じところでずっとふさぎ込んでいたかもしれない。
しかし今の俺は、前を見て歩こうとしている。
単純かもしれないけど、
今日一日のことで俺の心の一部が生き返った気がした。
そういった意味では彼女に感謝しなければいけなかった。
残りの夏休みは順調に消化されていった。
友達と思いっきり遊んで、一人にならないようにした。
一人でいると良い方に考えもいかないし、
ずっと何も変わらないと思ったからだ。
それまでは友達なんて…と軽視ていた部分が少なからずあったが、
今回のことでありがたみというか、重みを感じた。
俺の話をきちんと聞いてくれて、励ましてくれて、
何時間も付き合ってくれた。
去年はもう友達なんて作らないと決めたし、
必要ないと思っていたが、
やっぱり友達はいいものだと改めて感じた。
そして俺は自分が思っていたよりも周りから嫌われていない…
とも思えるようになった。
相変わらず、彼女はバイト先にやって来た。
いつも明るい笑顔で、
俺はそんな彼女を見るとホッと安心した。
以前よりは話すようになったと思う。
狩屋さんには、
「どういう心境の変化?」なんてからかわれたりもした。
その度に俺は笑って流すしかなかった。
夏は嫌いだ。
太陽の光も、風に混じる夏の匂いも、
体で感じる暑さも…。
全てが嫌な記憶しか思い出させないから。
でも、それに負けずに何かが俺を支えていた。
今にも崩れそうな俺を誰かが何も言わず、
ただそばにいて見守ってくれる。
そんな気がした。
そのおかげでこうして頑張れる自分がいる。
大学生活初めての夏が、静かに幕を閉じた。
微妙な暑さを残しながらも、
季節は確実に秋に移り変わっていた。
風向きも変わり、葉の色も徐々に赤く色づき始めていた。
バイト先で仕事をしていると、彼女の姿が見えた。
「こんちは。何か探してるの?」
本棚の前で迷っているような感じがしたので、
ちょっと声をかけてみた。
彼女は俺の声に反応し、
ものすごく驚いていた。
「え…どうしたの?」
逆に俺が驚いてしまった。
彼女が固まった様子を見せたが、それも一瞬だった。
「竜希さん…こんにちは」
いつもの彼女の笑顔だった。
彼女が見ていた本棚にふと目をやると、
そこは真っ赤で分厚い本がずらりと並んでいた。
赤本だった。
この時期になると、受験生には欠かせないものだ。
「赤本…買うの?」
「はい、そのつもりなんですけど…
本命の大学のはもちろん買うとして、
第二と第三志望、どっちの大学のを買おうかと思って。
両方とも第二志望のようなものだから…」
そう言って彼女は棚から一冊の本を出し、
ぺらぺらと軽くページをめくっていた。
「まぁ…俺からはなんとも言えないけど、
苦手な傾向の問題がある方を買って慣らすか、
得意な傾向のものをより完璧にするか…」
俺が高三の時はどうしてたかな…なんて、
頭で巡らしていた時だった。
「…竜希さんは、どこの大学なんですか?」
彼女が突然聞いてきた。
そういえば、俺がどこの大学に行っているかは話してなかった。
べつに教えなくてもいいだろうという感じだったし、
教えるかどうかということすら頭になかった。
「さぁ、どこでしょう?」
「どこなんですか?」
俺はとぼけたフリして流そうとしたが、
そうはいかなかった。
彼女は真剣な声と、真っ直ぐな目を俺に向けてきた。
その姿に少しの間、目を奪われた。
いつも見るあどけなさや可愛らしさはそこにはなかった。
俺が何も答えずにいると彼女は視線をそらし、
ものすごく小さなため息をついた。
「すみません。変なこと聞いて」
そして、手にしていた赤本に目を戻した。
俺はどうしていいのか分からなくなった。
何も言わずに立ち去るのもどうかと思ったが、
何を言っていいのか言葉もでてこなかった。
しばらくその場につっ立てる状態になってしまった。
足元が凍りついているようだった。
本棚の本に辛うじて動いた目をやると、
俺が行っている大学の赤本がちょうど目についた。
ほとんど無意識的にその本を棚から出し、
彼女に差し出した。
それに気づいて彼女がこちらを見る。
「これ」
彼女が首をかしげながら俺から赤本を受け取る。
「これが、俺の行ってる大学」
彼女に手渡した赤本は、
俺が通っている大学のものだった。
彼女は少し目を丸くさせながらも、
口もとに笑みを浮かべた。
「そうなんですか…」と、小さく呟きながら
その赤本の1ページ1ページをじっくりと見ていた。
大学の様子を色々聞いてきたので、
俺はできるだけ細かく教えてあげた。
「良い大学みたいですね…」
彼女はそう言った。
「俺はなかなか気に入ってるよ。
春の入学式の時、
門から校舎に行くまでの桜並木がとても綺麗だった」
俺は当日のことを頭に浮かべた。
黒い、しわ一つない真新しいスーツと白いワイシャツに身を包み、
緊張と不安と期待を抱きながら、
これから四年間通う大学を見据えていた。
淡いピンク色の桜並木があたたかく迎えてくれた。
「その桜並木…私も見てみたいです」
そう言うと、彼女は静かに赤本を閉じた。
あっという間に季節は秋から冬になり、
年が明けた。新しい年になった。
俺は何も変わらない毎日を過ごしていた。
普通に大学に行って勉強をし、
バイトをして友達と遊んだ。
今までと何も変わらなかった。
一つ変わったことといえば、
彼女がバイト先に来なくなったことだ。
最後に来たのは十月の最後の方だったと思う。
いつもと同じように少し話をし、
彼女は塾に行くからと言って十分程で本屋を出た。
そしてそれ以来彼女はここに来なくなった。
あまりにも突然だったので、
彼女の身に何かあったのかと心配になった。
しかしその心配も当たり前のようになっていって、
だんだん薄れていった。
もう今は一月の中旬に差し掛かっていて、
二ヶ月以上も会っていないと変な諦めというか、
妙に冷静になったりしていた。
受験も追い込みに入り、きっと忙しいのだろう。
本屋に来て俺と話して無駄な時間を過ごしているより、
勉強に集中している方がいいのだ…と、安心した部分もあった。
その方が彼女のためにも良いのだ。
彼女の来なくなったバイト先は、
なんだか少しものたりない場となった。
まるでそれまでとは違うような場所だと思わせるような空気が流れていた。
今日は彼女が来るんじゃないか…?と、
心のどこかで期待したりしている自分を見つけた。
本当に、いつの間に…という感じだった。
いつの間にか、前はすんなり否定できたことが、
今は否定できなくなっている。
それまではなんともなかったのに、
ものすごく寂しい気持ちに駆られるようになった。
過去のことを思い出し、
いるはずのない彼女の姿を見つめ続けた。
「しばらく彼女、来ないわね?」
狩屋さんがまたいつもみたいに、
俺をからかおうとして彼女の話題を持ち出してきた。
「来なくて寂しい?」
彼女の問いに誤魔化す余裕など、
もう俺にはなかった。
「そうですね…ものすごく」
鏡に映る俺の顔は時折、
悲しそうな目をしていた。
久々に、胸が苦しくなっていた。
一月の終わり頃。
何もなかったかのように、彼女はひょっこり姿を現わした。
「こんにちは、竜希さん」
本のメンテナンスをしていると、どこか懐かしい声が聞こえた。
横を見ると、そこには彼女が立っていた。
黒いダッフルコートを着た彼女は、
最後に会った時を変わらない笑顔だった。
「お久しぶりです」
変わらない明るい声。
俺を見つめる真っ直ぐな瞳。
心が、動いた。
「突然来なくなったから、どうしたのかと思ってたよ」
俺も、今までと何も変わらない態度で彼女に接する。
「塾とか勉強とか忙しくなっちゃって…
この前もセンター試験を受けてきたんです」
「どうだった?」
「まぁまぁってとこですかね?
自己採点で平均は越してました」
「そか…」
珍しく、二人の間で会話が途切れてしまった。
いつもなんだかんだいって話は盛り上がったりしていたのに、
久々ということもあってか、うまく言葉がでてこなかった。
何か言いたいのに、
ずっと話したかったのに、
何も言えなかった。
全身が固まったみたい機能しなかった。
お互いに向かい合わせで立っているのに、
お互いに視線は違う方に向けられていた。
あんなに、会いたいと思っていたのに…
なんて、心の中でそう自分をはやしたてた。
しかし焦れば焦る程、余計に沈黙が深まった。
少し重い沈黙だった。
そして俺は何を思ったのか、
彼女を抱きしめたいという衝動に駆られた。
本当に突然のことで、自分でも驚いた。
目の前にいる彼女を、自分の腕で抱きしめたい。
そう、自然と心から思ったのだ。
でもそんなことができるわけもなく、
俺はその衝動を押しとどめた。
「…試験はいつからなの?」
自分の中のものを隠すかのように言った。
「二月一日からです」
「そか…大変になると思うけど、頑張ってね」
俺はそう言ってから彼女の右肩を軽く叩いた。
「はい、ありがとうございます」
彼女は不安を打ち消すような笑顔を見せた。
次に彼女に会ったのは、その十日後だった。
バイト帰り、駅のホームのベンチで彼女の姿を見つけた。
俺が去年の夏にいたのと同じように。
夜は深まり始め、かなり冷え込んでいた。
ホームには人影がちらほらいるくらいで、
ほとんど二人しかいない状態に近かった。
うなだれて、髪が垂れているために横顔が見えず、
彼女の表情を窺うことができなかった。
ゆっくりと、一歩一歩近づく。
そばに寄っても、彼女はぴくりとも動かなかった。
そっとその小さな肩に手を触れる。
彼女は体をびくっとさせ、顔をあげた。
いつもの笑顔はなかった。
目は虚ろなまま涙で濡れていて、
不安で満ちた顔をしていた。
「…竜希さん」
かすれた声が、助けを求めるように俺の名を呼ぶ。
「こんな時間まで一体何やって…」
俺はそう言いながら彼女の隣に座った。
しばらく彼女は黙っていた。
冷たい風がよぎる。
吐く息も白かった。
俺はポケットに手を突っ込んで、身を少しかがませた。
そして彼女から言うまで何も聞かずに、
ただ待っていた。
静かに見守るように彼女を見ていた。
「竜希さん…私」
彼女は言葉を探しながら一つ一つを口にした。
「一番最初に受けた大学…落ちちゃいました」
うつむいたまま続けた。
「その大学、模試でA判定がでていて、
いちおう滑り止めだったんです。
なのに落ちちゃったから不安になっちゃって…」
一番最初に不合格通知をもらうのは痛い…。
しかも滑り止めの大学ならなおさらだ。
このまま自分はどこにも受からないんじゃないか?
というとてつもない不安に襲われる。
俺の場合、最初の通知は合格だったから
安心してその後も受験を受けることができたが、
多分それがなかったらかなりしんどかったと思う。
なかなか決まらない周りのやつらを見て、痛切に思った。
彼女の目からとめどなく涙が流れ落ちた。
俺は何と言葉をかけていいのか分からなかった。
こういう時、中途半端な言葉や少しでも間違った言葉をかければ、
彼女はさらに落ち込んでしまう。
どうすればいいのか分からなくて気がついたら、
彼女を抱きしめていた。
無理矢理引き寄せたり、
きつく抱きしめたりするのではなく、
そっと包みこむように。
まるで今にも壊れて崩れてしまいそうなガラスを優しく抱えるように…。
彼女は何の抵抗もしなかった。
俺の腕の中で泣くだけだった。
「大丈夫だから…」
俺は彼女を落ちつかせるように何度か呟いた。
「きっと大丈夫だから」
そして、ようやく分かったことがあった。
俺は、彼女のことが好きなんだ。
とても大切で、とても愛しい。
彼女がそばにいるだけでほっとする。
気持ちが優しくなれる。
彼女にはいつも笑っていてほしい…と願った。
俺がこうして前を向いて再び歩きだせたこと、
俺が今しっかりいられるのは、
きっと彼女のおかげなんだろうな…。
俺は生きることを決めた。
その隣に、きみはいてくれますか…?
「…好きだよ」
自然とその一言がでた。
二人は少し体を離してお互いの顔を見る。
彼女は「え?」という顔をしている。
言うべきではなかったかなと思いながらも、
俺は彼女の涙を拭ってから彼女の目を見てもう一度言った。
「きみが、好きだ」
彼女の涙が止まった。
じっと俺のことを見つめている。
「ごめん、突然…しかもこんな時に。
でも、言いたくなった」
今まで気づかないうちにためていたものが、
一気に溢れでたといった感じだった。
「あの、私…」
「言わないで」
彼女が返事をしようとしたのを止めた。
「こんなこと言えた道理じゃないけど、
今は受験のことだけに集中にて。
返事は、大学に受かった時に聞かせて…」
そう言い終ると、俺はまた彼女を抱きしめた。
「だからちゃんと大学に合格して、
笑顔で本屋に報告に来て…ね?」
彼女は小さく「はい」と言った。
「待ってるから…」
ホームに電車が入ってきて、
それに乗るよう俺は促した。
彼女は素直に従った。
別れ際、彼女は泣きそうな笑顔をしていた。
「私、ちゃんと大学に合格して、
そしたら竜希さんに会いに行きます。
それまで、待ってて下さい」
「あぁ、待ってるよ」
ドアが閉まり、彼女を乗せた電車は走り去ってしまった。
俺は、彼女が会いに来るのを待ち続けた。
しかし、三月になっても彼女は俺の目の前に現れなかった。
連絡をとろうにも、俺は彼女の携帯番号やアドレスも知らず、
何の手段もなかった。
そうこうしてるうちに、とうとう四月になってしまった。
大学二年目の春がやってきた。
俺はまた桜並木に迎えられ、
校舎へと続く道をゆっくりと歩いていた。
ふと足を止め、空を見上げた。
そっと吹く優しい風にのって、
桜の花びらが静かに舞っていた。
俺の横を人々が通り過ぎていった。
桜だけに意識を集中させていると、
周りのざわめきがシャットダウンされるようだった。
目を閉じて、深呼吸する。
春の空気が胸いっぱいに広がった。
すると聞き覚えのある声が耳をかすめた。
最初は気のせいかと思った。が、
確実に俺は名前を呼ばれていた。
「竜希さん!」
後ろを振り返る。
少し離れた所に、彼女が立っていた。
「え…」
「驚きました?
私、今年からここの大学に通うことになったんです」
本当に目の前にいるのは、
ずっと会いたがっていた、
待ち焦がれていた彼女なのであろうか…?
「報告遅れてごめんなさい。
でも次に会う時は、
前に聞いたこの桜並木で会いたいと思っていたんです」
彼女がゆっくりと俺に歩み寄ってくる。
「私、竜希さんにずっと伝えたかったことがあるんです…」
「それはぜひ聞かせてもらいたいな」
俺も彼女に歩み寄る。
待ち続けていた彼女が、今こうして目の前にいる…。
「亜実…」
俺は、初めて君の名前を呼んだ。